06
ピンポーン。
自宅のインターホンが鳴る。
まだ夏も真っ只中だというのに、ダウンジャケットを着込んだ男が画面の奥で俯いていた。
全身から冷や汗が吹き出す。ここはもうあの家じゃない。
——あの家は、関係ないのか?
俺の最悪の予感を肯定するように、その男は口を開いた。
「これは、私が実際に体験したお話です」
木々の間に車を停めた俺は、バックドアを開けテント、折り畳み式の椅子、机を取り出す。
その日は一人でキャンプに来ていた。今話題のソロキャンプだ。
ブラックシートを敷き、その上にテントを立てる。
三人ほど横になって寝られるものだが、慣れれば一人で立てられる。ついでに椅子と机を組み立ててしまえば完璧だ。
平日のオフシーズンだからか、俺以外にキャンプ場に人は居ない。
管理人も午後六時には居なくなってしまうので、夜になれば完全な貸切状態だ。
椅子に腰を下ろして持って来た小説を開く。木々を揺らす風や、鳥虫の声が心地いい。
十数ページほど読んだところで机に置く。
自然の中、ただ黙々と本を読むのはソロキャンプの醍醐味だが、少し刺激が欲しくなってきた。
狸や狐は出るかもしれないが、熊や猪は出ない地域だ。一人でほっつき歩いても、危険なことはないだろうから、少し辺りを散策をすることにした。
人気のない森が俺を見下ろし、鳥の声が森の木々を跳ねて、何処か遠くの空から聞こえていた。
キャンプ場をぐるっと一周歩く。特に何も目ぼしいものは見つからず、疲れた俺はまた椅子に座って小説を読む。
気付けばライトが無いと外で本を読むのも難しくなり、俺は慌てて夕食の準備を始めた。
机の上にランタンを乗せ、お湯を沸かしカップラーメンに注ぎ、タイマーを三分で予約する。
昼は神秘的にも思えた森林が、今は化け物の住まう魔境に見えて、木々の隙間からなにか恐ろしい、モンスターが現れてしまいそうだ。なんて妄想がやけに脳裏を過ぎる。
普段のキャンプでは、こんなことは早々考えないのだが、やはりキャンプ場に一人というのは、少なからず恐ろしいものがある。それが、そんな荒唐無稽な妄想になったのだろう。
俺は二分ほどでタイマーを止め、味わう事もせず食べ終える。
食べ終え、歯磨きなどを終えた俺は、テントに入り寝袋に包まる。
今日は沢山運転して、沢山本を読んで、沢山歩いたな。と一日を振り返っていると、疲労に促されて目を瞑った。
——ふと、目が覚めた。
手探りでスマホを開くと、時間は丑三つ時を少し過ぎたころ。
外から歩く音が聞こえる。土を踏み締め、枯れ枝が折れる音。
テントの周りを舐め回すようにゆっくりと……誰かが歩いている。止まることなく俺の周りを等速で動いている。
キャンプ場ではこういうことが少なからずある。
大抵は獣の類いで、仮に違う何かだとしても、普段なら眠気が勝って気付けば朝になって消えている。
——だが最悪なことに、尿意が限界だ。手洗い場は管理棟だ。
寝袋の中で手足をもぞつかせるも、尿意は限界で、今にも漏れそうだ。俺は腹を括ってテントを出た。
外は身体を引き裂く寒さで、俺はダウンジャケットを羽織り、机に置きっぱだったランタンを手に取る。
外は一切の明かりがない。ランタンを頼りに周囲を照らすも、一寸行けば闇に光が喰い殺されてしまう。
テントの周囲には俺のものとは明らかに大きさの違う、小さな足跡がいくつも残っており、その足跡は管理棟へと続いていた。
「誰かいるのか?」
俺はそう小さく呟きながら管理棟へ向かう。稀に夜から来る客も居る。もしかしたらその人が偶々テントの周りを散策していただけなのかもしれない。
管理棟は六時までは管理人がおり、薪を買ったり、キャンプ道具を借りることも可能だが、この時間は、管理棟は閉まっている。仮説のシャワーとお手洗いは、二十四時間利用可能なのが唯一の救いだ。
足跡は管理棟の前で消えていた。管理棟の中は当然、真っ暗で鍵も閉まっている。
ざぁざぁと森が揺れ、足元で枝葉の折れる音だけが辺りに響く。獣の気配どころか、虫の鳴き声すらしない。
お手洗いは、管理棟とは別で建てられていた。
入口が薄ぼんやりと明るく、扉に曇りガラスはあるが、中は見えない。
意を決し中に入る。森のざわめきすら聞こえず、足音だけがタイル張りの床に響く。
個室がひとつ、閉まっている。全身の細胞がここから逃げ出せと警鐘を鳴らす。それでも俺に逃げる選択肢はない。
ここから一番近いコンビニでも車で二、三十分かかる。
それまで持つとは到底思えなかった。
しきりに背後を確認しながら用を足す。
閉まった個室は、何度見ても閉まっており、中に人が居るとは思えないほどに静かだ。
背中がピリピリとむず痒く、心臓が速く強く鳴るのが分かる。
俺は用を終え、その場から逃げ出そうと動き出す。
個室の前を通る時、チラリとまた個室を見る。変わらず閉まったままで、中で誰かが動く気配も感じない。
そのとき、ふと視線が下へ向かう。
トイレは下に一定の隙間がある。靴先を外に出せる程度の隙間。
そんな隙間に、俺の目は釘付けとなった。
小学生くらいだろうか。お坊ちゃんヘアーの子供が、隙間から顔を出していた。
どうやってその姿勢になったのか、床に寝そべって仰向けに、頭を外に出した状態で俺をじっと見つめて、目が合うと、個室の扉が開いた。
「ご清聴、ありがとうございました」




