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愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


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第9話 手袋は小道具です

 王都の冬は、北の人間には暖かく、私には寒い。


「本当に、寒くないのですか」

「北では、この時期、川が凍る」


 西公園の池は、凍っていなかった。ただ、縁の浅いところに薄い氷が張って、鴨がそれを避けて泳いでいる。日曜の午後、池の周りを一周三十分。筋書きの通りだ。八度目の日曜だった。


 私は、手袋の中で指を握った。

 絹の手袋。実家で五年前に買ったもので、指先が薄くなっている。ブランシュのお下がりではない。ブランシュは私に、お下がりをくれたことがない。妹の物は、妹が飽きたあとも、妹の物だからだ。


 モンフォール家の帳簿には「夫人費」という項目がある。侯爵夫人の衣装、装飾品、その他、個人の支出に充てる枡だ。月に金貨三十。

 私はそこから、一銭も使っていなかった。

 使わない理由を、ジョゼットに訊かれたことがある。私は「必要がないから」と答えた。嘘ではない。ドレスは三着あるし、装飾品は母の物を二つ借りている。二年で出ていく人間が、この家の金で自分を飾るのは、帳簿として正しくない気がした。

 それだけだ。それ以上の理由は、ない。ないことにしていた。


「手が、冷たいだろう」


 彼が言った。前を見たまま。


「大丈夫です」

「手袋が、薄い」

「絹ですから」

「絹は、冬の手袋の材料ではない」


 彼は、池の周りの遊歩道を、いつもの速さで歩いていた。私の歩幅に合わせた速さだ。三度目の日曜から、そうなった。最初の二回は、彼のほうが速くて、私が追いついていた。彼はある日、何も言わずに速さを変えた。私はそれを、帳面に書かなかった。逸脱ではない。歩く速さは、筋書きに定めていない。


 池の東側に、冬のあいだだけ出る露店がある。栗売り、焼き菓子、それから、手袋と襟巻きを並べた小さな店。

 彼は、その店の前で足を止めた。


「子爵」

「待っていてくれ」


 彼は店主と二言三言話し、革の手袋を一組、手に取った。羊の革。裏に、毛が付いている。私の手には少し大きい。彼はそれを見て、店主に何か言い、店主が別の一組を出した。灰色の、少し小さいもの。


「これを」


 彼は代金を払い、私の前に戻ってきて、それを差し出した。


「逸脱です」


 私は言った。


「小道具だ」

「小道具」

「侯爵夫人が、冬に絹の手袋で公園を歩いていたら、噂が悪くなる。侯爵が妻に金を使っていない、と。それは彼の筋書きにも良くない。だから、これは小道具だ。筋書きのための」


 私は手袋を見た。それから、彼を見た。

 彼は、私を見ていなかった。池のほうを見ていた。鴨が、薄い氷の縁を、嘴で叩いていた。


「……小道具は、公演が終わったら返却しますか」

「返すなよ」


 彼は、池を見たまま言った。


 私は絹の手袋を外し、革の手袋をつけた。

 指が入った。裏の毛が、指の一本一本を包んだ。少しだけ、大きかった。でも、暖かかった。

 暖かい、というのがどういう感じか、私は手について、あまり考えたことがなかった。


「合うか」

「少し、大きいです」

「そのうち、馴染む」


 私たちは、また歩き出した。池の残り、四分の三周。

 途中、栗売りの前を通った。私は、いつものように足を止めかけて、やめた。彼が、私より先に足を止めていたからだ。


「栗を買っていいか」

「……どうぞ」

「二つ」


 彼は栗を二袋買い、一袋を私に渡した。私は受け取った。逸脱だ、と言おうとして、やめた。逸脱を数える指が、今は栗で温かかった。


 屋敷に戻ると、マルトが玄関にいた。

 珍しいことだった。女中頭は、奥様の帰りを玄関で迎える義務はない。この家では、特に。


「奥様。お帰りなさいまし」

「ええ」

「馬車に、温めた煉瓦を入れておきました。次の日曜からは、お出になる前に」

「……ありがとう」


 マルトは、私の手を見た。灰色の革の手袋を。何も言わなかった。それから、少しだけ声を落とした。


「下働きのリゼの子が、熱を出しておりました。先週。医者を呼べたそうです。月払いになったので、手元に金があったと」

「そうですか」

「先代の頃なら、呼べませんでした」


 彼女は、それだけ言って、頭を下げた。

 下げた頭が、上がるまでの時間が、これまでより少し長かった。それを私は、温度、と呼んでいいのだろうか、と考えた。よく分からなかった。分からないことが、この家で、また一つ増えた。


 ロドルフは、その夜も帰らなかった。

 カステラン家で夕食、とマルトが伝えてきた。今週で三度目だ。王都の社交界は、二組の噂をしている。侯爵とカステランの下の娘。侯爵夫人と北の子爵。

 筋書き通りだった。彼の筋書きの通りだ。噂は、育っている。


 ただ一つ、筋書きにないことがあった。


「奥様。今日、市場で聞いた話なのですが」


 夜、髪を解きながら、ジョゼットが言った。使用人の噂は、社交界の噂より半日早い。


「シャルヴィル家の侍女が、言っていました。奥様のことを」

「私の」

「はい。……『モンフォール侯爵夫人は、花が咲いたようだ』と」


 私は、鏡の中の自分を見た。


「誰が、そう言ったのですか」

「シャルヴィル夫人だそうです。先週の劇場で、桟敷の奥様を見て」


 花が咲いた。

 その言葉は、私に向けられたものとして、二十三年間、一度も聞いたことがなかった。ブランシュに向けられたのなら、数え切れない。妹は十五で咲き、十七で満開で、十九の今も咲いている。私は、咲く側の人間ではなかった。咲かせる側だ。花瓶の水を替え、茎を切り、日当たりを選ぶ側。


「……そう」


 と、私は言った。それ以上、言葉が出なかった。


 ジョゼットが下がり、私は一人で鏡の前に残った。


 鏡の中に、二十三歳の女がいる。

 髪は、ブランシュより暗い茶色。目は、母より小さい。頰は、実家にいた頃より、少し丸い。この家の食事は、実家より量が多い。それに、皿が空になるまで誰かが見ている食卓が、月に何度かある。


 私はその顔を、しばらく見ていた。

 知らない人を見るように。


 花が咲いたようだ。

 鏡の中の女は、花には見えなかった。ただ、頰が少し赤かった。公園の寒さのせいだ。八度目の日曜で、初めて、三十分の散歩のあいだ手が冷たくなかった。


 私は机の上の帳面を開いた。

 今日の日付。西公園。一周。栗、二袋。


『逸脱、三件。手袋(返却拒否)。』


 書いてから、少し迷って、その横に小さく書き足した。


『栗は、逸脱に数えない。数える基準が、分からない。』


 基準が分からない、と帳面に書いたのは初めてだった。

 私は帳簿の人間だ。基準が分からないものは、記録できない。記録できないものは、私の中で、置き場所を持たない。

 置き場所のないものが、今日、栗と手袋と、花が咲いたという言葉と、三つ増えた。


 寝台に入り、枕を抱えた。

 抱えた腕の先で、両の手が、まだ少し、暖かかった。


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