第8話 幕間・子爵の台帳(オノレ視点)
ヴェルネの土は、水を含んでいる。
北の山から下りてくる三本の川が、領地の真ん中で合流して、春には毎年どこかが崩れる。父の代までは、崩れた斜面を毎年、金で埋めていた。俺の代からは、ハンノキを植えている。木は金より遅いが、金より長く持つ。
父は、製鉄所を大きくしようとした。
本家の先代――ロドルフの父から金貨四千を借り、王都から来た請負人に炉を建てさせた。炉は二年で崩れた。請負人は消えた。父は、その翌年に死んだ。俺は二十二で、崩れた炉と、四千の借金と、川と、木を継いだ。
九年かけて、炉を自分たちの手で建て直した。借金は、年に三百ずつ返している。あと八年。
だから、ロドルフの手紙が届いたとき、俺は断れない立場にいた。それは、手紙を開く前から分かっていた。
『王都へ来い。妻と共に人前に出てもらいたい。目的は追って話す。借金の件は考慮する。 ロドルフ』
四行。あの男の手紙は、いつも短い。短い手紙を書ける人間は、自分の言葉が相手にとって重いことを知っている。
王都で、目的を聞いた。
書斎で、彼は椅子に座ったまま、俺を立たせたまま、全部話した。二年で離縁する。妻の妹を迎える。世間には妻のほうが去ったと見せる。だから、妻と人前に出る男が要る。
「君は信用できる。女に手を出す男ではない。そして、この街に何の縁もない。噂が育っても、君は北へ帰ればいい」
俺は、断った。
彼は、もう一度、同じことを別の言葉で言った。俺は、もう一度断った。
三度目に、彼は借金の話をした。
俺は、その場では答えなかった。宿へ帰った。
その夜、宿に二通目の手紙が届いた。
役目の内容。頻度の目安。期間、二年。借金の返済のうち、二年間、年百を免除する。妻に接触しないこと。妻もそれを承知していること。最後に、署名と日付。
全部、紙に書いてあった。
あの男は、何でも紙にする。父もそうだった。紙に書けば、正しいことになると思っている。俺は九年間、崩れた炉の請負契約書を、抽斗に入れて持っている。紙は、崩れた炉を建て直さない。
ただ、この紙は、捨てなかった。
捨てない理由を、そのときの俺は「何かの役に立つかもしれない」と考えた。もっと正直に言えば、あの男が自分の妻について書いた紙を、あの男に返してやりたくなかった。
翌日、俺は引き受けた。
理由は一つだ。俺が断れば、彼はもっと器用な男を手配する。器用な男が、何を頼んでも断らないという女と、二年、人前に出る。それが、どういうことになるか。俺は北の人間で、王都の作法は知らないが、そのくらいは分かる。
初めて会った日、彼女は帳面を出した。
筋書きを決めましょう、と言って、木曜と日曜と、場所と、接触の禁止と、記録のことを、順に並べた。声は静かで、手は震えていなかった。
俺は、震えていないことを確かめてから茶を飲む人間を、それまで見たことがなかった。
あの人は、三週間で二つのことを教えてくれた。
一つ。この街には、ああいう人がいる。
二つ。この街は、ああいう人を、見ていない。
劇場の廊下で、俺は見た。
実家の桟敷。母親が扇で自分を扇いでいる。父親が誰かと笑っている。妹が、水色のドレスで立っている。裾が、十センチ、垂れている。
侯爵夫人が、膝をついた。
硬い床に。針を、扇の紐から外して。四針。
「お姉様、遅い」と妹が言った。侯爵夫人は、「動かないで」と言った。
誰も、床に膝をついている侯爵夫人を、見ていなかった。妹も、母親も、父親も。俺だけが、廊下から見ていた。
春のヴェルネで、崩れなかった斜面を見たときと、同じだった。
誰も、その斜面を見ない。崩れた斜面を人は見る。崩れなかった斜面は、ただの斜面だ。その斜面の下で、ハンノキが根を張っていることを、木を植えた者しか知らない。
あの家は、あの人が根を張っているから、持っている。
そして、あの人が根を張っていることを、あの家の誰も知らない。
俺は、廊下に立ったまま決めた。
役は、やる。
彼女が言った筋書きの通りに。木曜と日曜。接触なし。
ただし、この二年の間、あの人が人間として扱われる時間を、俺が作る。皿を見る。上着を掛ける。訊いて、答えを聞く。それだけだ。それ以上のことは、俺には何もできない。北の男に、渡せる物はそれしかない。
二年経てば、あの人は金貨三千枚と家を持って出ていく。俺は北へ帰る。そのとき、あの人の帳面に「二年間、人間として扱われた」と、一行だけ残ればいい。
それが、俺の筋書きだった。
彼女は帳面を付けている。
俺も、付けている。上着の内側に、折った紙を一枚入れている。彼女のものほど整ってはいない。ただ、書いている。
『栗売りの前で、足を止める。買わない。値段を見て、それから歩き出す。三度。』
『劇場へ向かう馬車の中で、海運新聞を読む。北の港の船の出入りの欄。なぜ海運。訊いていない。』
『皿を見ないと、食べていない。パンだけのときがある。』
『笑うとき、口元を扇で隠す。笑っていないときも隠す。区別が難しい。』
『鼻歌。馬車の中。俺が眠っていると思ったとき。』
最後の一行を書いたのは、五度目の木曜の帰りだった。
俺は目を閉じていた。眠っていたわけではない。北の男は、王都の馬車の揺れで眠れない。
彼女が、小さく、歌った。
歌詞はなかった。旋律だけ。
俺は、目を開けなかった。開けたら、止まると分かっていた。
ヴェルネの子守歌だった。
川の名前が三つ出てくる、あの歌だ。俺の乳母が歌い、俺の母が歌い、ヴェルネの村の女たちが皆歌う。王都で聴くとは思わなかった。この街の人間が知っているはずのない歌だ。
乳母が北へ帰った、と彼女は馬車で言った。ヴェルネの近くの村だと。七つのときに帰り、十二のときに死んだと。
あの乳母が、教えたのだ。
この人は、七つまで、あの歌で眠っていた。それから二十三まで、誰の歌でも眠っていない。
俺は、目を閉じたまま、宿に着くまで聴いていた。
その夜、上着の内側の紙に書いた。
『北の歌。ヴェルネの子守歌。なぜ知っている――』
そこまで書いて、ペンを止めた。
訊けばいい。乳母の村はどこか、と。ヴェルネの隣なら、俺は村の名を全部知っている。墓がどこにあるかも、調べれば分かる。
訊けなかった。
訊けば、俺はこの人の、たぶん唯一の柔らかい場所に、指を置くことになる。それは、筋書きの外だ。接触に、入るかもしれない。
『――訊けない。』
と、書いた。
ブリュイエール夫人が、俺のことを「三十年で最悪の役者」と言ったそうだ。
当たっている。演じていないのだから、下手で当然だ。
夫人はもう一つ言ったと、彼女は馬車で教えてくれた。銭を拾って、誰に返せばいいか分からない男の顔、と。
それは、当たっていない。
俺は銭を拾ったことがない。北では、落とし物は届ける。届ける先は、いつも決まっている。落とした人間だ。
ただ、この街には、届ける先がなかった。
あの人を、あの人に返す。そう考えて、俺はしばらく、その文の意味が分からなかった。
あと、一年と十か月。
俺は紙を折って、上着の内側に戻した。
冬が来る。あの人の手袋が薄いことに、俺は先週、気づいている。それをまだ、紙には書いていない。書けば、次の日曜に何かをすることになる。
たぶん、する。
筋書きに、書かれていないことを。




