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愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


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第7話 観客はひとり

 ブリュイエール伯爵夫人の居間には、時計が七つあった。

 全部、少しずつ違う時刻を指している。私が入ったとき、いちばん大きな時計が三時を打ち、次の時計が三時を打ち、三つ目が打ち終わる頃には、夫人が茶を注ぎ終えていた。


「時計が合っていないと、お思いでしょう」


 彼女は、私が何も言う前に言った。


「合っているのよ。全部、別の家の時刻に。あれはシャルヴィル邸の時計と同じ時刻、あれはノルマン邸、あれは王宮。王都の噂は、家によって届く時刻が違うの。私はそれを、全部覚えていたくないから、時計に覚えさせている」


 五十を過ぎた、銀髪の婦人だった。夫を早くに亡くし、再婚せず、三十年、この居間で王都を聞いてきた人だ。

 噂の女王、と呼ばれている。本人はその呼び名を嫌っていると、母の名で書いた手紙の返事から、私は知っていた。彼女は、自分のことを「聞き手」と呼ぶ。


「お座りなさい、クレマンス。名前で呼んでいいでしょう。あなたの手紙は、十四のときから読んでいるんだから」


 私は座った。茶碗を取る前に、一度、指を握って、開いた。


「……ご存じでしたか」

「カステラン伯爵夫人の字で届く手紙が、九年前から急に賢くなったの。それも、季節ごとに少しずつ。子供が大人になる速さで。伯爵夫人が急に賢くなることはないから、誰か別の人が書いている。家に娘が二人いて、下の子はまだ十だった。だから上の子。それだけよ」


 彼女は自分の茶を一口飲んだ。


「あなたの手紙は、良かったわ。何を欲しがっているか、ちゃんと書いてあった。この王都で、何を欲しがっているか正直に書ける人は、ほとんどいない。皆、欲しいものを隠すのが礼儀だと思っている。私は、隠された欲は退屈だと思っている」


 私は茶碗を取った。手は、震えていなかった。震えていないことを確かめてから、飲んだ。


「先月の手紙も、あなたね。侯爵の名で来た、あの謝罪状」

「はい」

「三行目に『妻に書かせている』と書いてあった。侯爵の口調で書いておいて、あそこだけあなたの声だった。わざと?」

「……半分は」

「半分は、わざと。半分は、我慢できなかった」


 夫人は微笑んだ。私は、答えなかった。答えないことが、答えになる相手だった。


「さて。劇場の帳簿の話をしましょう」


 彼女は茶碗を置いた。


「金貸しの喜劇。一幕目で金貨四百、三幕目で金貨六百。あなたは、それが合わない、と子爵に言った」

「どうして、ご存じなのですか。二十度離れた桟敷からは、聞こえないはずです」

「聞こえないわ。でも見えるの。あなたは扇で口を隠して喋った。彼は隠さなかった。彼の口が『帳簿』と動いた。それから『計算を間違えたのか』と。あの芝居で帳簿と計算が出てくる場面は一つしかない。あとは、あなたが言いそうなことを考えれば足りる」


 私は、茶碗を置いた。

 この人の前では、扇は役に立たない。それを、覚えた。


「何が、お聞きになりたいのですか」

「聞きたいことはないの。言いたいことがあるだけ」


 夫人は、居間の七つの時計を、順に見た。


「私は三十年、この街の観客をしてきた。誰が誰と結婚し、誰が誰を裏切り、誰が何を演じているか。演じている人は、すぐ分かる。台詞が上手すぎるから。あるいは、目が台詞と違うことを言っているから」


 彼女は、私に目を戻した。


「あなたの従弟殿は、私が三十年見てきた中で、いちばん演技が下手」


 私は何も言わなかった。


「桟敷で、彼はあなたを見つめなかった。芝居を見て、あなたに何か訊いて、あなたの答えを聞いて、また芝居を見た。侯爵夫人と二人で桟敷に入った男がすることではない。口説いている男の顔でもない。かといって、退屈している男の顔でもない」


 彼女は、少し首を傾げた。


「道で銭を拾って、誰に返せばいいか分からない――そういう男の顔をしていた」


 私は、膝の上で手を組んだ。


「……それは、どういう」

「拾った物を、自分の物にする気はない。でも返す相手が分からない。だから持っている。持っている間、ずっと、それを見ている。そういう顔」


 時計が一つ、三時半を打った。ほかの時計は、まだ打たなかった。


「演技が下手なのは、演じていないからよ、クレマンス」


 夫人は静かに言った。


「そして、演じていない男を相手役に据えるのは、演出家の失敗か、あなたの幸運か、どちらか。私は、どちらか、まだ決めていない」


 私は口を開いた。何を言うか、決めていなかった。何かを否定しようとしたのだと思う。

 夫人が、片手を上げた。


「言わなくていいの」

「……」

「何のための演技かは、訊かない。二年後に何が起きるかも、訊かない。侯爵がカステランの下の娘を見る目は、この街で私だけが見ているわけではないし、あなたの家の使用人が三か月払いから月払いに変わった話も、今朝、私の時計の一つに届いた。だいたいのことは、時計が教えてくれる」


 彼女は茶を注ぎ足した。私の茶碗にも。


「私は観客。観客の仕事は、待つこと。筋書きを暴くのは、観客の仕事ではない。ただ――」


 夫人は、私の目を見た。


「観客には、一つだけ権利があるの。演技が下手だ、と言う権利。それを今日、使ったのよ」


 私は、茶を飲んだ。熱かった。


「なぜ、私に」

「あなたが、彼が演じていないことを、知らない顔をしていたから」


 夫人は、そう言った。


「知らない顔をしている人には、教えてあげる。それが、三十年の観客の、唯一の親切」


 帰りの馬車で、私は窓の外を見なかった。

 膝の上の帳面を、開かなかった。


 演じていない。

 それは、彼自身が最初の日に言ったことだ。「俺は演じない。正直にやる」。私はそれを帳面に書いた。内容不明、と。

 内容は、不明ではなかったのかもしれない。上着。牡蠣の皿。芝居について訊いて、答えを聞くこと。それが、正直にやる、の内容だったのかもしれない。

 ただ私は、それを「逸脱」と呼び、次の回で修正するべきものとして記録していた。


 修正、と私は考えた。

 どう修正すればいいのか、分からなかった。上着は返した。皿は、もう食べてしまった。

 修正できないものを、逸脱と呼ぶのは、帳簿として正しくない。


 その夜、劇場で、彼は先週と同じだった。

 芝居を見て、私に一つ訊いて、答えを聞いて、また芝居を見た。今夜は悲劇で、帳簿の出てくる場面はなかった。

 幕間、私は正面の桟敷を見た。ブリュイエール夫人の扇は、膝の上に置かれていた。角度はなかった。ただ、こちらを見ていた。


 帰りの馬車で、彼が訊いた。


「今日の午後、どこかへ出ていたと聞いた」

「ブリュイエール伯爵夫人のお茶に」

「あの、時計の」

「はい」


 彼は少し黙った。


「何を言われた」

「貴方の演技が、三十年で最悪だと」


 彼は、すぐには答えなかった。街灯が、二つ過ぎた。


「……そうか」

「怒りませんか」

「演じていないのだから、下手で当然だ」


 彼はそう言って、窓の外を見た。


「他には」

「観客は待つのが仕事だと。筋書きを暴くのは、観客の仕事ではないと」

「良い観客だ」

「はい」


 それから、モンフォール邸の門まで、二人とも何も言わなかった。


 寝室で帳面を開き、今日の日付の下に書いた。

 午後、茶会。夜、悲劇。逸脱、なし。


 ペンを止めた。

 逸脱なし、と書いた行を、私はしばらく見ていた。上着もなかった。皿も替わらなかった。筋書き通りの、木曜だった。


 それなのに、帳面を閉じたあと、私は笑えなかった。

 夫人の言葉が、耳の奥にあった。銭を拾って、誰に返せばいいか分からない男の顔。

 誰に返せばいいのか、分からないのは、私のほうかもしれなかった。

 私は今日、正しい台詞を一つも持たずに、二人の人と話した。


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