第6話 内務卿夫人からの招待
結婚から五週間で、私はこの家の手紙を、全部読めるようになった。
読める、というのは字が読めるという意味ではない。誰が誰に何を頼み、何を断られ、どこで貸しを作り、どこで借りを返していないか。手紙の束は、その家の帳簿の裏側だ。
モンフォール家の裏側は、正直に言えば、あまり良い状態ではなかった。
先代の侯爵は社交が嫌いだった。人付き合いは全部、亡くなった奥方に任せていた。奥方が亡くなってから六年、この家の手紙は「返事が遅い」で知られている。ロドルフは有能だが、有能な人にありがちなことで、有能さで片づかないものを後回しにする。招待状は、有能さで片づかない。
だから私は、五週間で、二百通を書いた。
ロドルフの声で。簡潔、断定、形容詞は一文に一つ。相手の功績を一つ、自分の関心を一つ。
夜、彼が帰ってくると、その日の分を書斎の机に置く。彼は署名する。最初の一週間は、読んでから署名していた。二週目から、読まずに署名するようになった。
信頼、と呼ぶこともできる。無関心、と呼ぶこともできる。私は、どちらでもいい、と思っていた。署名さえあれば、手紙は届く。
それが届いた朝、私は帳簿を見ていた。
「奥様。旦那様が、お呼びです」
ジョゼットが、少し息を切らして言った。ロドルフが朝、私を呼ぶことはない。私は帳簿を閉じて、書斎へ行った。
彼は机の前に立っていた。手に、一枚の厚い紙を持っている。金の縁。中央に、獅子と鍵の紋。
「シャルヴィル内務卿夫人からだ」
と、彼は言った。声が、いつもより半音高い。
「春の晩餐に、侯爵夫妻で招かれた」
私はその紙を見た。
シャルヴィル内務卿夫人の春の晩餐。招かれる家は、王都で十二。評議会の席を決めるのは国王だが、国王の耳に名前を入れるのは内務卿で、内務卿の耳に名前を入れるのは、その奥方の食卓だ。
ロドルフは三年、この招待を欲しがっていた。三年、届かなかった。
「……おめでとうございます」
「君の手紙だな」
彼は私を見た。
「先月、シャルヴィル夫人の慈善病院の件で、君が私の名で書いた手紙。あれか」
「はい。夫人が病院に寄付を集めていらしたので、モンフォール家からの寄付と、北の製鉄所からの鉄材の提供を、貴方の名で申し出ました。鉄材は子爵に相談して、原価で」
「鉄材」
「病院の寝台の枠に使うそうです。夫人はお金より、物を欲しがる方ですから。お金は皆が出します。鉄材を出す家は、モンフォール家だけです」
ロドルフは、しばらく招待状を見ていた。
それから、笑った。心からの笑いだった。私はこの人のこういう笑いを、妹の前でしか見たことがなかった。今、それは招待状に向けられていた。
「よくやった」
と、彼は言った。
「本当に、よくやった。続けてくれ」
続けてくれ。
部下に言う言葉だ。私はそれを知っていた。侯爵夫人としての私の仕事は、この人にとって、部下の仕事と同じ棚にある。それは契約の中身と、正確に一致している。だから私は、傷つかなかった。傷つく契約ではない。
「はい」
と、私は答えた。
「晩餐には、君が同席してくれ。こういう席は、君のほうが上手い」
「承知しました」
「それに――」
彼は招待状を机に置き、少し、声を柔らげた。
「ブランシュも言っていた。君は昔から、こういうことが得意だと。手紙も、贈り物も、人の好みを覚えるのも。家では全部、君がやっていたそうだな」
知っていたのだ。
私が家で何をしていたか、この人は知っていた。妹から聞いて。知った上で、それに値をつけなかった。「地味で、何を頼んでも断らない」の一行に、それは全部畳み込まれていた。
「妹は、そう言っていましたか」
「感謝していたよ。姉には何でも頼める、と」
私は頷いた。
それ以上、何も言わなかった。言うべきことも、言いたいことも、契約の中にはなかった。
書斎を出て、廊下を歩いているとき、ルネが小走りで追いついてきた。
「奥様。シャルヴィル夫人の件、聞きました」
「ええ」
「その、僕は――僕は三年、あの家に手紙を書いてきました。全部、返事は来なかった。奥様が一通書いたら、来た」
彼は、少し目が赤かった。
「何が違ったんですか」
「貴方は『招待してください』と書いた。私は『こちらに差し上げたい物があります』と書いた。それだけです」
「……それだけ、ですか」
「それだけです。ただ、差し上げたい物を見つけるのに、五週間かかりました」
ルネは、しばらく私を見ていた。それから、深く頭を下げた。
「僕は、奥様に一生ついていきます」
「二年です」
「え」
「私は二年で出ていきます。ご存じでしょう」
彼は口を開けて、閉じた。この家の壁が知っていることを、この家の秘書が知らないわけがない。ただ、それを私の口から聞いたのは、初めてだったのだ。
「……その二年、僕は奥様から全部覚えます」
「それは、良い考えです」
私は本気でそう言った。彼は、良い秘書になる。私がいなくなったあとも、この家の手紙が遅れないように。それが、この二年の間に私がこの家に残せる、たぶん唯一の物だ。
午後、帳簿に戻った。
使用人の給料の払い方を、三か月ごとから月ごとに変える案を、マルトに出した。マルトは「先代からの慣例です」と言い、私は「先代の慣例で、下働きが年に四人辞めています」と言った。マルトは黙り、それから「旦那様のご承認を」と言った。私は「昨夜いただきました」と答えた。嘘ではない。昨夜、彼は読まずに署名した書類の中に、それがあった。
マルトは、私を見た。温度のなかった目に、初めて、何かが浮いた。敵意ではなかった。警戒でもなかった。たぶん、算盤を弾いている目だった。この奥様は、二年で出ていく。しかしその二年の間に、この家を変えるつもりでいる。それは、残る使用人にとって、良いことなのか。
彼女は、まだ答えを出していなかった。私も、急がなかった。
夕方、二通目の招待状が届いた。
こちらは金の縁ではなかった。淡い紫の紙。封蝋に、小さな花――ヒースの花。ブリュイエール伯爵夫人の印だ。
宛名を見て、私は少し、手を止めた。
『モンフォール侯爵夫人 クレマンス様』
侯爵夫妻、ではなかった。
私だけの名が、書いてあった。
『木曜の午後、お茶に。お一人で。
劇場の帳簿の話を、伺いたいの。』
劇場の帳簿。
私は、あの喜劇の金貸しの計算が合わない、と、桟敷で子爵に小声で言った。それだけだ。誰にも聞かれていないはずの、二十度離れた桟敷からは。
私は招待状を、帳面のあいだに挟んだ。
木曜は観劇の日だ。午後にお茶、夜に劇場。忙しい木曜になる。
寝る前に、帳面の余白に小さく書いた。
『観客、一名。招待あり。』
書いてから、少し考えて、その下に付け足した。
『――目的、不明。』
内容不明、目的不明。
この帳面には、不明が増えていく。私はそれを、まだ、困ったことだと思っていた。




