第5話 牡蠣の皿
三度目の木曜が過ぎた週の土曜、カステラン家から晩餐の招待が届いた。
宛名は「モンフォール侯爵夫妻並びにヴェルネ子爵殿」。
筆跡は妹のものだった。母の字に見せようとして、丸くなりすぎている。
「従弟を紹介したい、と伯爵に伝えてある」
ロドルフは朝食の席で、新聞から目を上げずに言った。
「オノレが君と人前に出るなら、君の実家とも面識があるほうが自然だ。それに伯爵は、あちら側の人だ。何も隠す必要がない」
あちら側。
夫の言葉の選び方は、いつも正確だ。この結婚には、あちら側と、こちら側がある。あちら側には、私の父と母と妹と夫がいる。こちら側には、私と、借金で従わされた子爵がいる。
正確な言葉は、ときどき、ひどく静かに人を切る。
カステラン邸の食堂は、私が生まれ育った部屋だ。
だが、嫁いでから初めて客として入ると、部屋の見え方が変わっていた。天井の染みが、前より大きい。蝋燭が、前より少ない。父が借金を重ねているのは、帳簿を見なくても分かる。
「ようこそ、侯爵。子爵殿も」
父は上機嫌だった。父は客がいると、いつも上機嫌だ。母は椅子から立たずに微笑み、ブランシュは立って、ロドルフの前まで来て、両手で彼の手を取った。
「いらっしゃいませ、ロドルフ様」
夫の顔が、変わった。
その変わり方を、私は舞踏会で三度見た。四度目だった。彼は妹の前で、私の前では一度も見せない顔をする。有能な男の顔ではない。ただの、二十八歳の男の顔。
「クレマンスも、いらっしゃい」
母が言った。私は「ただいま戻りました」と言いかけて、やめた。ここは、もう戻る家ではない。「お招きありがとうございます」と言い直した。
席順は、母が決めていた。
父の右にロドルフ、その右にブランシュ。父の左に子爵、その左に私。母は末席、というより、ブランシュの向かいで、ブランシュを見ていられる席。
侯爵夫人は本来、主人の右手に座る。私はブランシュの席に座るべきだった。だが誰も、それを言わなかった。私も言わなかった。この家では、私が言わないことは、起きなかったことになる。
スープが出た。
給仕はブランシュから始まった。それから父、ロドルフ、母、子爵。私の前にスープが置かれたのは最後だった。
子爵が、給仕の順を目で追っているのが分かった。私は膝の上で、手を組んだ。
魚が出た。
牡蠣だった。
銀の皿に、殻付きで六つ。氷の上に。北の海から今朝届いた、と父が言った。婚礼の朝食と同じ台詞だった。ブランシュが「わたしの大好物」と言い、ロドルフが「知っている」と答え、母が満足そうに頷いた。
私の前にも、六つ。
私は、手をつけなかった。
パンを一切れ取り、小さくちぎって食べた。それだけだ。誰も見ていない。この家で私の皿を見る人は、いない。二十三年間、いなかった。
だから、隣で皿が動いたとき、最初は分からなかった。
子爵が、自分の皿を私の前に置いていた。
空の皿だった。六つの牡蠣を、彼はいつの間に食べたのか、殻だけが氷の上に残っている。そして私の皿――牡蠣が六つ、そのまま載っている皿は、彼の前にあった。
彼は何も言わなかった。私の顔も見なかった。父と、狩りの話をしていた。合間に、私の皿だった牡蠣を、一つ、また一つ、殻から外して食べた。
私は空の皿の前で、パンを食べた。
喉が、少し詰まった。牡蠣のせいではない。
「ところで子爵殿。北の狩りはどのようなものかな。私は若い頃、東の森で鹿を――」
父が始めた。父は狩りの話を始めると、四十分止まらない。そして今夜の客の中に、狩りの話を聞くと不機嫌になる人が一人いる。ロドルフだ。彼は落馬で兄を失っている。狩りの話は、この人の前ではしない。それは私が、彼の手紙を三週間書いて覚えた、最初の禁忌だった。
「お父様。子爵は、林業をなさっているのでしょう。ハンノキだと伺いました。狩りより、木の話のほうがお詳しいのでは」
私は口を挟んだ。父は「ほう、ハンノキ」と言い、話題が林に移った。ロドルフの眉が、ほんの少し緩んだ。彼は自分の眉が緩んだ理由を、たぶん知らない。
「ハンノキは、湿った土に根を張る木です」
子爵が、静かに言った。
「川の岸や、崩れやすい斜面に植える。地味な木で、花も実も見栄えはしない。ただ、根が土を掴む力が強い。北では、あの木があるかないかで、春の雪崩の数が変わります」
「へえ。地味な木が、そんな仕事を」
「地味な木が、大抵の仕事をしています」
彼はそう言って、最後の牡蠣を食べた。
食卓は、賑やかだった。
ロドルフとブランシュが笑い合っている。何かの舞踏会の、誰かの帽子の話だ。ブランシュが笑うと、ロドルフが笑い、母が二人を見て笑い、父が満足する。
私は、その笑いが途切れるたびに、次の話題を置いた。ロドルフが先週会った大使の話。母が好きな刺繍工房が新しい絹を入れた話。ブランシュが行きたがっている春の舞踏会の主催者の、娘の名前。
誰が何を嫌い、誰が何を欲しがっているかを、この食卓で私ほど知っている人はいない。だから会話に穴が開くと、私が埋める。埋めたことに、誰も気づかない。埋めた穴は、穴に見えないからだ。
子爵は、私が穴を埋めるたびに、少しだけこちらを見た。
その視線に、私は気づかないふりをした。
食後、父はロドルフを書斎に連れていった。母とブランシュは、ロドルフが書斎から出てくるのを待つために、居間に移った。
私と子爵は、玄関ホールに残された。
「先に、帰ろう」
彼が言った。
「旦那様が」
「彼は、今夜はここに長くいる。俺たちが待つ必要はない。それに――」
彼は少し言葉を探した。
「あなたは、疲れている」
馬車の中は暗かった。
街灯の光が、窓を通って、彼の顔を一定の間隔で照らした。
しばらく、誰も何も言わなかった。
街灯が、五つ過ぎた。
「牡蠣」
と、彼が言った。
「食えないのか」
「はい」
私は答えた。窓の外を見ていた。
「小さいころ一度食べて、喉が腫れました。三日、寝込みました」
「……そうか」
街灯が、三つ過ぎた。
「あの人たちは」
彼は、ゆっくり訊いた。
「知っているのか」
私は答えなかった。
答えは、彼がもう知っていた。訊いたのは、私に言わせるためではない。たぶん、自分が聞き違えていないことを確かめるためだ。
街灯が、二つ過ぎた。
「……あの家で私の皿を見る人は、いません。乳母がいた頃は、いました。乳母は、私が七つのときに北へ帰って、十二のときに死にました」
「北へ」
「ヴェルネの近くの村だと、聞いています。貴方の領地の隣です」
彼は、何か言おうとして、やめた。
私も、それ以上言わなかった。
馬車がモンフォール邸の門を通ったとき、彼が言った。
「筋書きに、今夜のことは書くのか」
「逸脱になりますか」
「皿を替えるのは、接触には入らないだろう」
「入りません。……ですが、書きます」
「何と」
私は少し考えた。
「逸脱、二件。牡蠣の皿」
「一件目は」
「上着です。先週の」
「返してもらった」
「返しても、逸脱の記録は消えません。記録とは、そういうものです」
彼は、暗い馬車の中で、たぶん笑った。声は出さなかったが、大きな肩が一度、上下した。
寝室で、帳面を開いた。
二頁目の下に、今夜のことを書いた。カステラン邸、席順、給仕の順、狩りの話、ハンノキ。
それから、最後の行。
『逸脱、二件。牡蠣の皿。』
書き終えて、私はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
二十三年。
父も、母も、妹も、私が牡蠣を食べられないことを知らない。夫も知らない。婚礼の朝食に牡蠣を並べたのは、私の父だ。
三週間。
三度の木曜と、一度の晩餐。それだけで、この人は知った。訊いてもいないのに、皿を替えた。
二十三年と、三週間。
私はその二つの数字を、帳面の余白に小さく書いて、それから線を引いて消した。
数字が合わないものを、私は帳面に残しておけない質なのだ。




