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愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


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第4話 逸脱、一件。上着

 王立劇場の二階桟敷は、王都でいちばん値の張る窓だ。

 舞台を見るための席ではない。見られるための席だ。桟敷に座る令夫人は、舞台の役者より多くの視線を集める。私はそのことを、十八の年に一度だけ、父の桟敷の後ろの席で学んだ。あの夜、前の席にはブランシュが座っていた。


 今夜、私は前の席に座っている。

 隣には、礼服を新しくした子爵がいる。肩の縫い目は、今夜は鳴らなかった。


「あれが、ブリュイエール伯爵夫人です」


 私は扇を口元に寄せ、正面の桟敷を示した。銀髪を高く結った婦人が、こちらを見ずにこちらを見ている。扇の角度が、十五度ほど下がった。


「あの角度は」

「『新しい話題を見つけた』の角度です。三十度なら『退屈』、水平なら『敵』」

「よく知っているな」

「十四の年から、母の名で夫人に手紙を書いてきました。返事の文面で、扇の角度が分かるようになります」


 オノレは、正面の桟敷をちらりと見て、すぐに舞台へ目を戻した。

 見られている、と分かったときに、見られていない顔をする。それは器用さではなく、たぶん、北の狩人の習性だ。


 幕が上がった。

 喜劇だった。金貸しの老人が、娘の持参金を惜しんで結婚を三度壊し、四度目に自分が騙される話。

 客席は笑った。私は笑わなかった。金貸しの帳簿の付け方が、途中で二度おかしくなったからだ。三幕目の借用証の金額が、一幕目と合わない。


「面白くないか」


 小声で、隣から訊かれた。


「帳簿が合いません」

「帳簿」

「一幕目で老人が貸した額は、金貨四百です。三幕目で娘の夫が返せと迫られている額は、金貨六百。利息を三割としても、二年で六百にはなりません」

「……脚本家が、計算を間違えたのか」

「あるいは、老人が娘の夫を騙しているのです。ただ、それなら四幕目で暴かれるはずで、そうならなかった。だから、間違いです」


 オノレは黙って、舞台を見た。

 しばらくして、言った。


「あなたは、そういう風に世界を見ているのか」

「そういう風に、とは」

「合うか、合わないか」

「……たぶん」


 彼は頷いた。馬鹿にした顔ではなかった。呆れた顔でもなかった。

 誰かに「面白くないか」と訊かれて、本当の理由を答え、それが本当に聞かれたのは、いつ以来だろうと私は考えた。考えて、思い出せなかった。


 筋書きでは、この時間に彼は私を「見つめる」ことになっていた。ロドルフが最初に描いた粗い絵では、そうだ。

 彼は、見つめなかった。芝居について訊いた。私の答えを聞いた。それから、また芝居を見た。

 演じない、とはこういうことか、と私は思った。

 ブリュイエール夫人の扇が、正面の桟敷で、さらに五度下がった。


 幕間になった。


 廊下がざわめく。人々が桟敷を出て、互いを見に行く時間だ。

 私たちは桟敷に残ることにしていた。出れば近づかれ、近づかれれば話され、話されれば嘘を一つは言わねばならない。私も彼も、嘘の在庫が少ない。


 扉が叩かれた。

 ジョゼットが開けると、実家の紋の付いた仕着せの少年が立っていた。


「奥様。カステラン伯爵夫人より、お言葉です。ブランシュ様のドレスの裾がほつれましたので、直しに来ていただきたいと」


 オノレが、少年を見た。それから私を見た。

 私は立ち上がった。


「行ってきます」

「……直しに、あなたが」

「私が、いちばん早いのです」


 実家の桟敷は、廊下の反対側にあった。

 中に入ると、母が扇で自分を扇いでいて、父が誰かと笑っていて、ブランシュが立っていた。淡い水色のドレスの裾が、右の後ろで十センチほど垂れている。


「お姉様、遅い」


 と、ブランシュは言った。責める声ではない。妹はいつも、ただ事実を言う。


「動かないで」


 私は膝をついた。廊下の絨毯より、桟敷の床は硬い。針と糸は、扇の紐に結んで持ってきている。十八の年から、そうしている。

 裾を持ち上げ、裏から留める。四針。糸を切る。


「終わりました」

「ありがとう。……ねえ、お姉様、ロドルフ様は今夜、いらしてないの?」

「評議会の準備で」

「ふうん。じゃあ、あの大きな方と二人なの。可哀想」


 可哀想、が私に向けられたのか、子爵に向けられたのか、私は考えなかった。

 立ち上がったとき、桟敷の扉が開いていた。

 廊下の向こうに、オノレが立っていた。

 ついてきていたのだ。桟敷の中には入らず、廊下で、私が膝をついて裾を留めるのを、最初から最後まで見ていた。


 目が合った。

 彼は、何も言わなかった。私も何も言わなかった。

 私は実家の桟敷を出て、彼の横を通り、自分の桟敷へ戻った。彼は一歩後ろをついてきた。


 二幕目のあいだ、彼は一度も口を開かなかった。

 芝居は、たぶん、面白かったのだと思う。客席は笑っていた。


 終演後、外は雨だった。


 王立劇場の車寄せには、屋根がある。しかし馬車が列を作っていて、私たちの馬車は列の後ろのほうにいた。屋根の端まで歩けば届く。そこから馬車の扉まで、雨の中を三歩。


「ここで待ちましょう」

「濡れるぞ」

「三歩です」


 彼は返事をしなかった。

 代わりに、上着を脱いだ。新しい礼服の上着を。それを、私の肩に掛けた。


 重かった。

 男の上着は、私が知っているどの上着より重かった。父の上着を肩に掛けられたことはない。夫の上着も。妹に掛けたことはある。

 北の羊毛の匂いと、煙の匂いが、わずかにした。


「筋書きにありません」


 私は言った。声が少し低くなったのを、自分で聞いた。


「知っている」


 彼は言った。それだけだった。

 馬車が来た。彼は扉を開け、乗り降りの例外規定に従って、手を差し出した。私はその手を取り、馬車に乗った。彼は上着を着ていないまま、雨の中に立っていた。


「上着を」

「今日はそのまま持っていってくれ。明日、使いに返してくれればいい」

「濡れます」

「北の男は、雨で死なない」


 扉が閉まった。

 馬車が動いた。私は窓から、雨の中の大きな影が、自分の馬車のほうへ歩いていくのを見た。急いでいなかった。


 屋敷に帰り、上着を椰子の椅子の背に掛けた。

 ジョゼットが「乾かして参ります」と言った。私は「明朝で結構です」と答えた。なぜそう答えたのか、自分でも分からなかった。


 寝室で、帳面を開いた。

 一頁目。契約締結。内容不明。

 二頁目に、日付を書いた。その下に、初回の観劇のことを書いた。桟敷、喜劇、帳簿の間違い、ブリュイエール夫人の扇、二十度。母の使い。裾、四針。


 最後に、書いた。


『逸脱、一件。上着。』


 書いて、ペンを置いて、その一行を見た。

 次の回で修正する、と私は彼に言った。逸脱は、修正するために記録するのだ。

 どう修正するのだろう、と私は考えた。上着を返す。それは修正だ。明朝、使いに持たせて返す。それで帳面上は元に戻る。


 でも、肩に残っている重さは、使いに持たせて返せない。

 私はそのことを、帳面には書かなかった。

 書く欄が、なかった。


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