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愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


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第3話 当て馬の子爵は、演じないと言った

 従弟は、応接間の扉より大きかった。

 正確には、扉より背が高いわけではない。ただ、扉を通るときに肩を少し斜めにしたので、そう見えた。


「従弟のオノレだ。ヴェルネ子爵。北で製鉄所と林をやっている」


 ロドルフの紹介は簡潔だった。有能な男の紹介はいつも簡潔だ。相手を説明する言葉が短いほど、その相手を自分の下に置いていることになる。


「オノレ・ド・ヴェルネです」


 子爵は、頭を下げた。礼服の肩の縫い目が悲鳴を上げた。三十歳を少し越えたくらい。日に焼けた顔。手が大きく、指の関節に古い傷がある。王都の男の手ではない。

 髪は短く、無造作で、たぶん自分で切っている。目は、意外に静かだった。


「クレマンスです」


 私は座ったまま、少し頭を下げた。侯爵夫人は子爵に立たない。この家でそれをするのは、私の役目ではなく、私の立場だ。


「では、二人で話してくれ。私は評議会の準備がある」


 ロドルフは言い、本当に出ていった。扉が閉まる。

 妻と、妻の相手役と、二人だけ。ここで扉を閉めていくのが、あの人の正直さだ。私はそれを、割合正しく評価している。


 子爵は立ったままだった。


「お座りください」

「……失礼」


 彼は椰子の椅子に腰を下ろした。椅子が小さく軋んだ。私たちの間には低い卓があり、ジョゼットが淹れた茶が二つ、湯気を上げている。


 しばらく、誰も何も言わなかった。

 彼は茶に手を伸ばさなかった。私も伸ばさなかった。

 外で馬車の音がした。


「彼から、聞いたか」


 最初に口を開いたのは、彼だった。低い声。北方の訛りが、語尾にわずかに残っている。


「はい。初夜に」

「初夜に」


 彼は繰り返した。それから短く息を吐いた。怒ったのではない。何かを噛みつぶす音に近かった。


「俺は断った」

「そうですか」

「二度断った。三度目に、借金の話を出された」


 借金。

 ヴェルネ子爵家が本家に借りがあることは、この家の帳簿を昨日読んだ私にはもう分かっていた。先代侯爵の貸付。金貨で四千。返済は年に三百。あと八年は続く額だ。


「では、断れませんね」

「……あなたは」


 彼は私を見た。静かな目が、初めて何かで揺れた。


「平気なのか」

「平気ではありません」


 私は茶碗を取った。手が震えていないのを確かめて、一口飲んだ。


「ですが、進んで引き受ける方より、嫌がっている方のほうが安全です。私はこの二年、貴方と人前に出ることになります。私を軽んじている人より、この役を軽んじている人のほうが、私には都合が良い」


 彼はしばらく黙った。

 それから、大きな手で自分の膝を一度叩いた。決めるときの癖なのだと、後で知った。


「筋書きを、決めよう」

「はい」

「彼は、噂が育つ程度に人前に出ろ、と言った。それ以上の指示は無い。細かいことは、俺たちで決めていいそうだ」

「では、決めましょう」


 私は帳面を出した。昨夜、寝る前に用意しておいたものだ。一頁目は白紙。


「まず、頻度。毎週木曜、観劇。毎週日曜、公園の散歩。それ以外は、旦那様が同席する催しのみ」

「多くないか」

「少ないと、噂になりません。多いと、噂が悪くなります。週二回は、王都の令夫人が親しい友人と会う頻度と同じです。それ以上でも、それ以下でもない」

「……なるほど」

「次に、場所。観劇は王立劇場の二階桟敷。人の目が多く、しかし桟敷の中は見えない。想像の余地が、噂を育てます。散歩は西公園の池の周り。一周三十分。長すぎず、短すぎず」


 彼は、私の言うことを本当に聞いていた。

 頷くときに、ちゃんと私の目を見る。それだけのことが、少し珍しかった。


「次に、接触。一切なし。手を取らない。腕を組まない。馬車の乗り降りで手を貸すことも、なし」

「馬車の乗り降りは、貸さないと危ない」

「では、乗り降りだけは例外に。それ以外は、なし」

「分かった」

「最後に、記録」


 私は帳面の一頁目に、日付を書いた。


「筋書きから外れたことがあれば、私がここに記録します。逸脱、と呼びます。逸脱があれば、次の回で修正する。二年間、この帳面を続けます」

「そこまでするのか」

「私は、記録がないと不安になる質なのです」


 彼は帳面を見た。それから、私の顔を見た。何か言いかけて、やめた。


「異議は」

「一つだけ」


 彼は言った。

 膝を、もう一度叩いた。


「俺は、演じない」


 私は帳面から目を上げた。


「演じない、とは」

「口説く芝居も、見つめる芝居も、しない。俺にはできない。北で木と鉄しか相手にしてこなかった男に、そういう器用さはない」

「では、どうなさるのですか」

「正直にやる」

「正直に、何を」


 彼は少し考えた。本当に考えている顔だった。


「分からん」


 と、彼は言った。


「やってみる」


 私は、たぶん、口を少し開けていたと思う。

 手配された相手役。夫の従弟。借金で従わされた男。私はこの人について、いくつかの用意をしてきた。軽薄なら、距離を取る。粗暴なら、断る。狡猾なら、記録で縛る。

 「分からんが、やってみる」は、どの用意にも当てはまらなかった。


「……それは、筋書きに書けません」

「書かなくていい。逸脱に数えてくれ」

「初回から逸脱ですか」

「初回から逸脱だ」


 彼は、笑わなかった。私も笑わなかった。

 でも、部屋の空気が、少しだけ動いた。


「一つ、お訊きしても」

「どうぞ」

「貴方は、これを引き受けて、何を得るのですか。借金の減額ですか」

「彼はそう言った。俺は、あまり当てにしていない」

「では、なぜ」


 彼は茶碗を取った。大きな手に、茶碗がおかしいほど小さく見えた。一口飲んで、卓に戻した。


「……あなたは、何を得る」

「出口を」


 私は答えた。用意していた答えだった。


「二年後、金貨三千枚と、家を一軒持って、この家を出ます。人生でいちばん条件の良い契約です」

「それで」

「それで、です」

「出た先で、何をする」


 私は答えなかった。

 答えを持っていなかったからだ。出ること、までは考えた。出た先のことは、まだ考えていない。二年あるのだから、と思っていた。


 彼は、私が答えないのを、責めなかった。ただ、頷いた。


「俺はな」


 と、彼は自分の話に戻した。


「彼が言ったんだ。『妻は有能で、地味で、何を頼んでも断らない。君が困ることは何もない』と」

「妹と同じことを言っています」

「それを聞いて、引き受けた」

「なぜですか」

「何を頼んでも断らない人間を、二年、人前に引き回す。それを、断らない人間に頼む。俺は北の人間で、こういうことに慣れていないが――それは、あまり良い話ではない、と思った」


 彼は、私を見なかった。窓のほうを見ていた。


「俺が断れば、彼は別の男を手配する。俺より器用な男を。それなら、俺のほうがいい、と思った。……理由は、それだけだ」


 私は帳面に目を落とした。

 白紙の一頁目に、日付だけが書いてある。


 ペンを取って、その下に書いた。


『契約締結。木曜観劇、日曜散歩、接触なし、逸脱は記録。

 相手役は演じない。正直にやる、とのこと。内容不明。』


 書き終えて、彼に見せた。

 彼は読んで、大きな手で膝を叩いた。


「いいだろう」

「では、今週の木曜から」

「劇場に、何を着ていけばいい」

「その礼服以外なら、何でも」


 彼は自分の肩を見た。縫い目が、また小さく鳴った。


 ロドルフが戻ってきたのは、それから十分ほど後だった。

「話はついたか」と訊き、私が「はい」と答えると、「良かった」と言った。

 良かった、が誰に向けた言葉なのか、私は考えなかった。考えても、答えは分かっていた。


 その夜、寝室で帳面を開き、一頁目を読み返した。

 内容不明。

 自分で書いた三文字を、私はしばらく眺めていた。

 内容が不明なものを、私はこれまで、あまり抱えたことがない。


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