第2話 仮の奥様と、返事の来ない手紙
朝、六時に目が覚めた。実家と同じ時刻だった。体は、どこの寝台にいるかを知らない。
呼び鈴を鳴らすと、若い侍女が来た。ジョゼットと名乗った。十七か十八。私の顔を見て、寝台の反対側の枕がまったく乱れていないのを見て、また私の顔を見た。何も言わなかった。良い侍女だ。
「奥様は、朝はどのように」
「七時に朝食を。旦那様と同じ食卓で結構です。それから女中頭を呼んでください」
「……はい」
着替えて下りていくと、ロドルフはもう食堂にいた。新聞を読んでいる。私が入ると顔を上げ、「おはよう」と言い、新聞に戻った。悪意はない。単に、そこに私がいることが、彼の朝に何の変化も与えないだけだ。
朝食のあと、女中頭のマルトが来た。
六十に近い、背筋の真っすぐな女性だった。私を見る目に敵意はなかった。ただ、温度がなかった。
「奥様。ご用でしょうか」
「この家の帳簿を見せてください。過去三年分」
「帳簿は旦那様と秘書のルネ様が管理しております」
「今日から私が管理します。旦那様の許可は昨夜いただきました」
マルトは一瞬、扉のほうを見た。ロドルフはすでに出かけている。確認する相手がいない。
「……承知いたしました」
彼女が帳簿を持って戻ってくるまでの間、私は窓から庭を眺めていた。手入れは良い。しかし薔薇の剪定が一週間遅れている。庭師が一人減ったのだろう。
帳簿を開いて、二時間で分かったことが三つあった。
一つ。この家は金がある。ただし使い方に癖がある。先代の頃の支出項目がそのまま残り、誰も見直していない。
二つ。使用人の給料が、三か月に一度まとめて払われている。月払いに直せば、下働きの離職が減る。
三つ。屋敷の全員が、私が二年で出ていくことを知っている。
三つ目は帳簿に書いてあるわけではない。
だが、私の寝室の調度に予算が一銭もついていないこと、私付きの侍女が一人だけであること、私の名で発注された物が婚礼ドレス以外に何もないこと――そういうものは、帳簿の余白に、はっきり書いてある。
仮の奥様。
この家の壁は、そう呼んでいる。
昼前、秘書のルネの部屋を訪ねた。
二十四歳、痩せて、目の下に隈がある。机の上には手紙が三つの山になっていた。招待状、招待状の返事待ち、それ以外。三番目の山が一番高い。
「奥様、これは、その」
「返事を書いていない招待状は、何通ありますか」
「……三十七通です。旦那様が、評議会の件で忙しく、判断を伺えないものが」
「一番古いものは」
「六週間前の、ブリュイエール伯爵夫人の茶会です」
六週間。
ブリュイエール伯爵夫人は、王都の噂を扇の先で動かす人だ。六週間返事をしないというのは、扇で頬を叩くのと同じ意味になる。
「ルネ。私が引き受けます」
「え」
「旦那様の社交上の書簡は、今日から私が下書きします。貴方は評議会関連の公文書に専念してください。それが、この家の評議会入りにいちばん近い道です」
彼は一秒ためらい、次の一秒で三つ目の山を私の腕に載せた。溺れかけている人は、浮いてくる板の材質を問わない。
自室に戻り、三十七通を並べた。
差出人ごとに、家の格、旦那様との関係、遅れた日数、相手の性格を書き出す。ブリュイエール夫人には、遅れを詫びる手紙ではなく、彼女の噂の網の中でこの家が「新しい話題」になるための手紙が要る。
私はペンを取り、ロドルフの声を思い出した。
簡潔。断定。形容詞は一文に一つまで。相手の功績を具体的に一つ挙げ、自分の関心を一つだけ添える。昨夜、寝室で聞いたあの声が、そのまま文体になる。
『拝啓 ブリュイエール伯爵夫人
六週間前の茶会へのお返事が遅れましたこと、まず謝罪いたします。理由は簡単で、その間に私は結婚をしました。夫人のお耳には、すでに届いておりましょう。婚礼の詳細をどこよりも早くお伝えする代わりに、遅れをお許しいただけないか――そう考えて、この手紙は妻に書かせております。……』
ロドルフの声で書く、と決めていたのに、三行目で「妻に書かせている」と書いてしまった。
それでいい、と思い直した。ブリュイエール夫人は、飾った文より、種のある文を好む。「侯爵が新妻に社交書簡を任せた」――それは彼女の網にかかる、小さくて新しい虫だ。
午後三時までに、十二通を書いた。
署名欄は空けておく。夜、ロドルフに読ませて、彼の手で署名させる。私の字と彼の字は違うが、私の文章と彼の声は、今日一日でほぼ同じものになった。
四時、実家から手紙が届いた。
母の筆跡――正確には、母の筆跡だと皆が思っている字だ。母は十年前から、手紙を自分で書いていない。書いていたのは私だ。母の字を真似て、母の言い回しで、母の署名まで。だから今、目の前にある「母の手紙」は、私以外の誰かが母の字を真似て書いたものだった。
妹の字だ、とすぐに分かった。ブランシュは、母の字を真似ようとして、丸くなりすぎる。
『クレマンス
婚礼は立派でした。皆が褒めていました。
さて、ブランシュの礼状の件です。婚礼で受けた祝いの品への礼状を、今後もお前が書いてください。ブランシュは筆が遅く、社交期のいまは時間がありません。宛先と品の一覧を同封します。ブランシュの字で、いつも通りに。
お前が嫁いでも、家族であることは変わりません。
母より』
同封の一覧には、八人の名があった。全部、ブランシュへ贈り物をした人だ。私への祝いの品は、婚礼の日に食卓の端に置かれていた七つで、そちらの礼状はもう私が書き終えている。誰にも頼まれずに。
私は便箋を八枚出した。
ブランシュの字は、母より丸く、少し右に傾く。「し」の払いが長い。文末に、必ず小さな花を描く。私は十九の妹の筆跡で、十九の妹の口調で、八通の礼状を書いた。
『とても嬉しゅうございました』『お目にかかれる日を楽しみに』『ブランシュより』。
小さな花を、八つ。
最後の一通を書き終えたとき、窓の外が暗くなっていた。
私は八通を封筒に入れ、封をせずに束ねた。封は実家でする。妹の印章を、私は持っていないからだ。
夕食にロドルフは帰らなかった。カステラン家に招かれている、とマルトが伝えてきた。妹のところだ。彼女は「奥様には申し訳ありませんが」という顔をしなかった。この家では、それは謝るような出来事ではない。
一人の夕食を済ませ、私は書斎の本棚を探した。
法令集の棚に、婚姻院規則があった。先代が揃えたものらしく、紙が古い。私は該当の章を開いた。
『第三十一条 合意による婚姻の解消は、婚姻登録より満二年を経過した後、両当事者の署名及び財産の分与に関する合意書を添えて申請することができる。婚姻院は過失の有無を記録しない。
『第三十二条 前条の期間は、内務卿の裁可があるときに限り、短縮することができる。
『第三十三条 一方の過失(不貞、悪意の遺棄、その他婚姻の本旨に背く行為)による解消の申請は、期間の制限を受けない。過失を認定された者は、持参財産及び分与を請求する権利を失い、その旨を記録される。』
二年。
満二年、と法は言う。三十一条は、私の側の守り。三十三条は、私の側の刃――誰かがそれを、私に向けようとしたときに、初めて意味を持つ刃だ。
私は三条を頭に入れ、本を棚に戻した。
自室で、今日書いた手紙を数えた。
ロドルフの声で、十二通。
ブランシュの字で、八通。
合わせて二十通。
私の名を書いた手紙は、一通もなかった。
いつものことだ。十四の年から、そうだ。
寝台に入り、枕を抱えた。
明日、ロドルフは従弟を連れてくる、と朝食のときに言っていた。北方の子爵。手配された相手役。
会ってから、受けるか決める。それが私の一つ目の条件だ。
断れるのだろうか、と考えた。
断ったことが、あまりない。




