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愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


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第1話 初夜、相手役の手配について

「君を愛することはない」


 初夜の寝室で、夫となった人はそう言った。

 私は頷いた。


「存じています」


 ロドルフ・ド・モンフォール侯爵は、続きを言うために開いていた口を、一度閉じた。

 用意してきた台詞があったのだろう。今夜のために、たぶん何日も前から。それを私が最初の一文で受け取ってしまったので、二文目の置き場所がなくなったのだ。


「……知っていた、と」

「はい。貴方が妹を見る目を、私は舞踏会で三度見ました。父が借金の話をする声を、扉の向こうで二度聞きました。母が『汚れ役は姉で構わない』と言うのも聞きました。合わせれば、だいたい分かります」


 寝室の燭台は四本。侯爵家の初夜としては控えめだが、私の実家の食堂よりは明るい。

 ロドルフは窓際の椅子に腰を下ろした。寝台には近づかない。私も寝台の端に座ったまま動かなかった。互いの距離は、床板にして七枚分。


「ならば話が早い」


 彼は膝の上で指を組んだ。二十八歳、明るい栗色の髪、外務評議会の席を欲しがっている目。宮廷で「有能で、正直な男」と言われている人だ。


「私は君に嘘をつかない。だから全部話す。この結婚は、亡父がカステラン伯爵と結んだ婚約契約の履行だ。婚姻院に登録された婚約を反故にすれば、モンフォール家の信用に傷がつく。それは避けたい。だから君と結婚した」

「はい」

「しかし私が妻に望むのはブランシュだ。二年後、婚姻院へ合意離婚を申請する。満二年を過ぎれば、双方の署名と財産分与の取り決めだけで、過失の記録なしに離縁できる。その後、間を置いてブランシュを迎える。君の実家も同意している」

「存じています」


 同意している、どころではない。

 この筋書きを最初に考えたのは私の母だ。借金の代わりに嫁ぐなど、ブランシュには相応しくない。契約の汚れ役は姉が済ませ、そのあとで愛の結婚をブランシュに――母は本気で、それが妹を守る最善だと信じている。


「ただし、一つ問題がある」


 ロドルフは声を落とした。ここからが、本題らしい。


「合意離婚は記録に過失を残さない。だが世間は記録を読まない。噂を読む。侯爵が落ち度のない妻を離縁し、その妹を娶った――そう見られれば、私の評議会入りは終わる。だから世間には、君のほうが私を去ったと見せる必要がある」


 私は待った。


「君は、この二年の間、私ではない男と共に人前に出る。観劇、散歩、茶会。噂が育つ程度に。離婚のとき、世間はこう言う。侯爵夫人は他に心を寄せ、侯爵は寛大に妻を解放した。その後、傷心の侯爵を慰めたのが妻の妹だった、と」


 なるほど、と思った。

 よく出来ている。父や母には作れない筋書きだ。これは、この人の頭で組まれたものだ。


「相手役はこちらで手配した」


 手配。

 馬車や、花や、婚礼の朝食の牡蠣のように。


「私の従弟だ。北方のヴェルネ子爵。信用できる。近日中に会わせる」


 彼は言い終えて、私を見た。泣くか、怒るか、あるいは崩れるか。そのどれにも対処できるように、彼は椅子の背に体重を預けていた。

 私は少し考えた。それから言った。


「条件を、四つ申し上げても宜しいでしょうか」


 ロドルフの眉が動いた。


「……聞こう」

「一つ。相手役は、お会いしてから受けるか決めます。手配された方をそのまま受け取るのは、お断りします」

「妥当だ」

「二つ。その方との間に、接触は一切なし。見せるだけです。噂を作るのに、事実は要りません」

「当然だ。私もそれを望む」

「三つ。この二年の間、私は本物の侯爵夫人としてこの家を回します。仮の妻として客間に座っているのは、性に合いません。家計と使用人の采配の権限を、私に」


 彼は初めて、私の顔をまじまじと見た。


「なぜ」

「働いていないと、時間が長いからです」


 嘘ではない。全部でもない。

 実家では十四の年から、家の書簡も、社交暦も、帳簿も、私が回してきた。母は神経が弱く、父は数字が嫌いで、妹は美しかった。私は自分の手が止まっているのを見ると、不安になる質なのだ。

 それに――権限があれば、記録が残る。記録は紙だ。紙は、あとで役に立つ。


「構わない。むしろ助かる。秘書のルネが溺れかけている」

「四つ。離婚の条件を、今ここで書面にしてください。二年後の合意離婚、財産分与の額、住まい、年金。貴方の署名と、日付を」


 沈黙が落ちた。

 燭台の蝋が、ひとつ小さく跳ねた。


「――私は君に嘘をつかない」


 ロドルフは、ゆっくり言った。傷ついた声ではなかった。むしろ、自分の信条を確かめる声だった。


「はい」と私は答えた。「ですから、紙に」


 彼はしばらく私を見ていた。

 それから、ふ、と息を吐いた。笑ったのだと、少し遅れて分かった。


「君は、思っていたのと違う」

「どう思っていらしたのですか」

「ブランシュの言う通りの人だと。おとなしくて、地味で、何を頼んでも断らない姉だと」

「頼まれれば、断りません。頼まれていないことを、勝手にするだけです」


 彼は立ち上がり、続き部屋の書き物机から紙とペンを持ってきた。

 私が口述し、彼が書いた。二年後の合意離婚申請。分与は金貨三千枚。第三区の家屋一軒。年金は年に金貨二百枚。相手役との接触なし。夫人の家政権限。全部で十一行。

 彼は読み返し、署名し、日付を入れた。


「これで良いか」

「はい」


 私は封筒をもらい、紙を入れ、蝋を垂らした。印章は持っていない。実家の印は父の物で、妹の物で、母の物だった。私は親指で蝋を押した。


「一つ訊いていいか」


 扉の前で、彼は振り返った。


「なぜ怒らない」

「怒ってもいい契約でしたか」


 彼は答えなかった。答えを持っていなかったのだと思う。


「おやすみ、クレマンス。君は有能だ。この二年、悪くない関係でいられると思う」

「おやすみなさい、旦那様」


 扉が閉まった。

 足音が廊下を遠ざかり、別の扉が開いて、閉まった。

 侯爵は、侯爵の寝室で寝る。私は、侯爵夫人の寝室で寝る。それがこの家の、今夜からの決まりになった。


 私は立ち上がり、背中に手を回した。

 婚礼のドレスは、背中に三十二個の釦がある。侍女は下がらせてある。初夜の寝室に侍女を残す妻はいない。だから私は、鏡に背を向け、指の感覚だけで一つずつ外していった。

 十四番目で、指が痛くなった。

 二十番目で、休んだ。

 三十二番目が外れたとき、ドレスは床に落ち、私はしばらくそれを見ていた。


 寝台に入る。

 枕が二つある。私は片方を胸に抱えた。抱えるものがあると、眠りやすい。実家でもそうしていた。


 天井を見ながら、今朝のことを思い出した。

 婚礼の朝食。長い食卓。銀の皿に並んだ牡蠣。北の海から今朝届いた、と父が自慢していた。

 私は牡蠣が食べられない。小さいころ一度食べて、喉が腫れて、三日寝込んだ。乳母のナネットが夜通し手を握ってくれた。

 だからあの朝、私は牡蠣に手をつけなかった。パンと、卵と、水だけを口にした。

 主賓席の花嫁が皿に触れなかったことに、気づいた人は一人もいなかった。父も、母も、妹も、夫も。

 二十三年、この調子だ。


 私は枕を抱え直した。

 二年。七百三十日。

 そのあいだに、私はこの家の帳簿を覚え、この家の使用人の名を覚え、王都の家々の誰が誰を嫌っているかを覚え、そして、金貨三千枚と家一軒を持って出ていく。

 悪くない。本当に、悪くない。人生でいちばん条件の良い契約だ。


 ただ、手配された相手役のことだけが、少し気になった。

 北方の子爵。従弟。信用できる。

 信用できる、というのは、誰にとってなのだろう。


 蝋燭が一本消えて、部屋が四分の一だけ暗くなった。

 私は目を閉じた。


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