第10話 幕間・白紙の妹(ブランシュ視点)
朝、目が覚めると、まず窓の光を見る。
晴れなら水色。曇りなら薔薇色。雨なら白。私のドレスの色は、空が決める。空と私のあいだに、侍女のマリオンがいて、マリオンが三着出して、私が一着選ぶ。
それが私の朝で、十九年、そうだった。
「ブランシュ、今日はどこへ」
「デュポン伯爵夫人のサロンです、お母様」
「あの家の娘は、あなたを見て顔色を変えるから、気をつけて」
「ええ」
お母様は、私の頰に手を当てる。それから、私の髪を一房、耳の後ろに掛ける。お母様の指は、いつも私の顔のどこかを直している。直さなくても、私は綺麗なのだけれど、お母様がそうしたいのだから、させてあげる。
お姉様の頰に、お母様が手を当てているところを、私は見たことがない。お姉様の顔には、直すところがないのだと思っていた。地味だから。
デュポン伯爵夫人のサロンは、退屈だった。
退屈なサロンで私がすることは、決まっている。座って、笑って、扇を動かして、誰かが私を見るのを待つ。待たなくても、見る。皆、見る。私が部屋に入ると、部屋の空気が私のほうへ少し傾く。それが、私の知っている世界の形だった。
「ブランシュ様。お姉様、お綺麗になられたわね」
言ったのは、モラン男爵夫人だった。四十くらいの、退屈な人。
「――え?」
「モンフォール侯爵夫人。先週、劇場でお見かけしたの。桟敷で。お綺麗になられて」
私は、扇を動かした。
何と言えばいいのか、分からなかった。文の置き場所が、なかった。
お姉様、が主語で、お綺麗、が述語の文を、私は十九年、一度も聞いたことがない。お姉様は、綺麗になったり、ならなかったりする人ではない。お姉様は、いつもそこにいて、私の裾を直す人だ。
「……そうですか。ありがとうございます」
私は、そう言った。どうして「ありがとう」なのか、自分でも分からなかった。
「北の子爵様と、いつも桟敷にいらっしゃるでしょう」
別の人が言った。若い、私と同じくらいの令嬢。
「あの方、ぜんぜん口説いていらっしゃらないの。ただ、奥様に何か訊いて、答えを聞いて、また舞台を見て。それだけなのに、見ていると胸が痛くなるのよ。なぜでしょうね」
「口説かれてもいないのに?」
「口説かれていないから、よ」
令嬢は、そう言って笑った。私は笑わなかった。笑うところが、分からなかった。
「お姉様は、地味な方ですのに」
と、私は言った。悪気はなかった。事実を言っただけだ。
モラン男爵夫人が、扇の上から私を見た。
「地味な花が咲くと、目立つのよ、ブランシュ様。派手な花は、咲いていても、誰も驚かない」
部屋の空気が、少し、傾いた。
私のほうへ、ではなかった。
サロンを早めに出て、私はモンフォール邸へ向かった。
用事はなかった。ロドルフ様は、今日は評議会だと聞いている。お姉様に、会いたいわけでもなかった。ただ、あの家を見たかった。
二年後、私の家になる家を。
門番は、私の顔を知っていた。カステランの下のお嬢様、と。玄関の扉を開けた若い侍女は、私を見て、少し困った顔をした。「奥様にお取り次ぎを」と言うと、「少々お待ちください」と言って、ホールの奥へ消えた。
私は、玄関ホールに一人で立った。
天井が高い。カステランの家より、ずっと。階段の手すりが、磨かれている。花瓶に、冬の枝が挿してある。誰が選んだのか、すぐに分かった。お姉様の選ぶ枝だ。実家でも、冬の花瓶にはああいう枝が入っていた。私は、あれを花瓶が勝手にそうなるものだと、十九年、思っていた。
奥から、声が聞こえた。
「――それで、店主が言うのです。北の方は、手袋の大きさを牛で測るのですか、と」
「牛では測らない。羊だ」
「羊で測るのですか」
「測らない。……いや、測るかもしれない」
低い、男の声。子爵だ。私は一度だけ、うちの晩餐で見た。大きくて、無口で、牡蠣を十二個食べていた人。
それから、もう一つの声。
笑い声だった。
私は、その声が誰のものか、少しの間、分からなかった。
女の声。高くはない。抑えた、少し掠れた、声を出すことに慣れていない人の笑い方。
お姉様だった。
私は、ホールの真ん中に立ったまま、動かなかった。
お姉様が笑うところを、私は見たことがあった。もちろん、ある。私が何かをして、お母様が笑って、お父様が笑って、お姉様も笑う。そういう笑いだ。部屋の空気に、遅れてついてくる笑い。
いま聞いた笑いは、違った。
誰にも、ついていっていなかった。あれは、お姉様自身の笑いだった。
ホールの奥の扉が、少し開いていた。
隙間から、二人が見えた。子爵は椰子の椅子に座っていて、椅子が小さすぎる。お姉様は立っていて、扇を持っていなかった。口元を、隠していなかった。
二人は、私に気づかなかった。
私は、気づかれないというのが、どういうことか、そのとき初めて知った。
私が部屋にいるのに、部屋の空気が、私のほうへ傾かない。
十九年で、初めてだった。
「ブランシュ様。奥様が、お会いになるそうです」
侍女が戻ってきて、そう言った。私は「いえ」と言った。「用事を思い出したので、失礼します、と伝えて」。侍女は、また困った顔をした。私は背を向けて、玄関を出た。
馬車の中で、私は自分の手を見ていた。
手が、震えていた。
どうして震えているのか、分からなかった。怒っているのではなかった。お姉様を、憎んでいるのでもなかった。お姉様を憎むなんて、考えたこともない。憎むには、お姉様は、あまりにいつも、そこにいた。
盗まれた。
その言葉が、最初に浮かんだ。
何を盗まれたのか、少し考えて、分かった。
見られること。
それは、私のものだった。生まれたときから、私のものだった。お母様が私の頰に手を当て、お父様が私を客に見せ、舞踏会で部屋が私のほうへ傾く。それが、私の持っている、たぶん唯一のものだった。私は、字が遅いし、帳簿は読めないし、人の名前を覚えられない。それでも、見られる。それで、足りていた。
お姉様は、見られない人だった。
その代わりに、全部できる人だった。それで釣り合っていた。私はそう思っていた。誰もそうは言わなかったけれど、うちの家は、そういう形をしていた。
いま、お姉様が、見られている。
シャルヴィル夫人に。モラン男爵夫人に。あの若い令嬢に。子爵に。
それなら、私は、何を持っているのだろう。
その夜、ロドルフ様がうちに来た。
いつものように、お父様と話し、お母様に礼を言い、それから私の隣に座った。私は、ロドルフ様の腕を取った。腕を取ると、彼はいつも、少し笑う。私の前でだけ見せる顔だと、私は知っている。それは、私の物だ。
「ブランシュ。今日は、どこかへ出ていたと聞いたが」
「デュポン伯爵夫人のサロンに。退屈でした」
「そうか」
「……ロドルフ様。二年は、長いですね」
彼は、私を見た。
「長いか」
「はい。とても」
「もう少しだ。あと、一年と十か月」
彼はそう言って、私の手を取った。
私は微笑んだ。微笑むのは、上手い。
ただ、耳の奥で、まだ、あの笑い声がしていた。
抑えた、少し掠れた、誰にもついていっていない笑い声。
私は、あの声を、消す方法を知らなかった。
消す方法を知らないものが、私の人生に現れたのは、十九年で、初めてだった。




