第11話 毛布と、夫の正直
その夜、私は書斎で眠ってしまった。
言い訳をすれば、手紙が多すぎた。春の社交期が近づくと、王都の家々は一斉に招待状を出す。返事は三日以内が礼儀で、モンフォール家には、一日に十二通が届いた。私はロドルフの声で、朝から夜まで書いた。彼の署名を待つ手紙が、机の右側に二十一通、積んであった。
最後の一通を書き終えたのが、たぶん、真夜中を少し過ぎた頃だ。ペンを置いて、目を閉じた。開けるつもりだった。
目が覚めたのは、肩に何かが触れたからだった。
重くて、柔らかいもの。毛布だ。
私は目を開けなかった。
なぜ開けなかったのか、あとで考えても、よく分からない。たぶん、眠っている人の肩に毛布を掛けた人は、その人が起きることを望んでいない、と思ったのだ。それは礼儀の問題だった。
足音は、なかった。
その人は、机の前に立ったまま、動かなかった。私は、頰を机に付けたまま、その人の呼吸を聞いていた。ロドルフだ。この家で、この時刻に、この書斎に入る人は、ほかにいない。
長い時間だった、と思う。実際は、たぶん、十秒か二十秒。
彼は、机の右側に積んだ二十一通の手紙を、見ていたのだと思う。それから、たぶん、私を見た。私の顔ではなく、私という――この家の帳簿の余白に「仮」と書かれたものを。
「……有能だな」
と、彼は言った。
小さな声だった。私に言ったのではない。自分に言った声だ。何かを確かめる声。この家で私に見つけたものの名前を、彼はそう呼ぶことにしたのだ。それで、彼の中の帳簿が合ったのだと思う。
足音が、遠ざかった。扉が、静かに閉まった。
私は目を開けた。
毛布は、彼の書斎の長椅子に掛けてあったものだった。灰色の、少し古い。先代の頃からあるものだ。
私はしばらく、机に頰を付けたまま、その毛布の重さを感じていた。
上着ほどは、重くなかった。
翌朝、朝食の席で、彼は新聞を読んでいた。
私が座ると、彼は新聞から目を上げた。いつもは、上げない。
「昨夜、書斎で寝ていたな」
「申し訳ありません。片づけて――」
「謝ることではない。……手紙、二十一通、見た。全部、良かった」
私は、頷いた。
「君は」
彼は新聞を置いた。それも、いつもはしない。
「私に、不満がないのか」
私は、少し考えた。
考えたのは、答えではなかった。答えは、決まっていた。考えたのは、この人がなぜ、今朝、それを訊くのか、だった。毛布を掛けた手が、彼の中で、まだ何かの形で残っているのだろうか。それは、私の知らない形だった。
「不満を申し上げる契約では、ありません」
「契約でなければ」
「契約以外のものは、私たちの間にありません。旦那様が、そう決められました。私は、それに同意しました」
彼は、私を見ていた。
それから、少し、安心したような顔をした。私の答えが、彼の帳簿に合ったのだ。
「私は、君に嘘をついたことがない」
と、彼は言った。いつもの言葉だった。彼の信条で、彼の誇りで、彼が自分を測る、たぶん唯一の物差し。
「はい。それは、本当です」
私は答えた。
本当だった。この人は、初夜に全部を話した。二年後のこと、妹のこと、相手役のこと。隠したことは、一つもない。私はそれを、正しく評価している。世の中には、隠す夫のほうが、ずっと多い。
彼は満足して、新聞を取り、立ち上がった。
「良い手袋だ」
扉の前で、彼は言った。私の手を見て。
「やっと、夫人費を使ったか。もっと使えばいい。君が絹の手袋で公園を歩いていると、私が妻に金を使わない男に見える」
私は、何も言わなかった。
彼は、答えを待たずに出ていった。
嘘をつかないことと、人を見ることは、別の仕事です。
私はその一文を、彼が出ていった扉に向けて、声に出さずに言った。声に出すのは、契約の外だ。
彼は本当に、嘘をつかない人だ。ただ、この手袋を誰が買ったのか、彼は見ていない。この家の帳簿の夫人費が、五か月間、一度も動いていないことを、彼は見ていない。見ていないことについては、人は、嘘をつかないで済む。
午前、ルネの部屋で、私は彼に「一覧」を渡した。
十二枚の紙。王都の主な家の、当主と奥方の名、子の名と年齢、誕生日、好きな物、嫌いな物、誰と不仲か、誰に借りがあるか。五か月かけて、私が手紙から集めたものだ。
「これは……」
「貴方が、私の代わりに手紙を書くための物です。今日から、招待状の返事の半分は貴方が下書きしてください。私が直します」
「奥様、僕にはまだ――」
「一年と七か月しかありません」
彼は、紙をめくった。三枚目で、手が止まった。
「『シャルヴィル内務卿夫人。返事は三日以内。遅れは許さない。花より、物。物より、手間』……『ヴァレンヌ公爵。馬の話は絶対にしない。二年前に競走馬を失っている。誰かが馬の話をすると、その家の招待を一年断る』」
「その二つは、絶対に忘れないでください」
「……奥様」
ルネは紙から目を上げた。目が、また少し赤い。この青年は、目が赤くなりやすい。
「奥様がいなくなったら、俺は死にます」
「死なないように、覚えてください」
「無理です」
「では、死んでください。手紙の返事を出してから」
彼は、笑った。泣きそうな顔で。私は、笑わなかった。でも、ルネが一覧を胸に抱えて自分の机に戻る背中を見て、少し、良かった、と思った。
この家に、残せる物が一つ増えた。
木曜、劇場。
今夜は、恋愛物だった。身分の違う二人が、三幕かけてすれ違い、四幕で結ばれる。客席の令嬢たちが、四幕で泣いた。私は泣かなかった。三幕目で、二人が手紙を交換する場面があり、その手紙の届く日数が計算と合わなかったからだ。
「今日も、帳簿か」
隣で、彼が小声で言った。
「手紙です。王都から国境まで、三日で届いています。実際は、七日かかります」
「脚本家は、手紙を出したことがないのだろう」
「たぶん」
幕間、私は彼に訊いた。訊くつもりはなかった。口が、勝手に動いた。
「子爵は、嘘をついたことが、ありますか」
彼は、少し、私を見た。
「ある」
「どんな」
「父に。炉は、直ると言った」
「……直らなかったのですか」
「父が生きている間には、直らなかった。父が死んで、九年かけて直した」
彼は舞台のほうへ目を戻した。幕は、まだ下りたままだ。
「それは、嘘ではありません。間違いです」
「北では、同じ言葉だ」
私は、その一言を、しばらく持っていた。
北では、同じ言葉。
直ると言って、直らなかったなら、嘘。事情は問わない。それは、私の帳簿の付け方に、近かった。合うか、合わないか。
「旦那様は、嘘をついたことがない、と言います」
「知っている。あの男の口癖だ」
「本当だと、思います」
「俺も、そう思う」
彼は、頷いた。それから、少し間を置いて、言った。
「本当のことしか言わない人間は、見なかったものについては、何も言わない。それだけだ」
私は、扇を口元に寄せた。
今朝、私が扉に向けて声に出さずに言ったことと、ほとんど同じだった。言葉は違う。中身が、同じだった。
幕が、上がった。
その夜、帳面を開いた。
木曜、劇場、恋愛物、手紙の日数、逸脱なし。
書き終えて、ペンを止めた。
昨夜のことを、書くべきかどうか、少し迷った。書斎、毛布、有能だな。
逸脱の欄には、書けなかった。逸脱は、筋書きから外れたことを書く欄だ。そして筋書きは、木曜と日曜と、子爵と私のためのものだ。夫は、筋書きの中にいない。筋書きを書いた人だから。
筋書きを書いた人が、真夜中に毛布を掛けた。それを書く欄は、この帳面にはなかった。
私は余白に、小さく書いた。
『旦那様。毛布。――欄なし。』
欄がない、と書いたのは、二度目だった。
一度目は、上着の重さだった。あれも、欄がなかった。
欄のないものが、この家の、二人の男から、一つずつ来ている。私はそれを、どちらも、まだ、どこにも置けていなかった。




