第33話 逸脱、なし
春、セルの村の教会で、式を挙げた。
招いたのは、七人だった。
老いた司祭は、私の顔を見て、「二人目が、来ましたな」と言った。
マルトが、来た。王都から、四日。女中頭が休暇を取るのは、あの家に来て十七年で初めてだという。「推薦人ですから」と、彼女は言った。それだけ言って、教会の裏の墓地に行って、いちばん川に近い石の前に、しばらく立っていた。何をしていたのか、私は訊かなかった。花瓶の枝を選ぶ人は、墓の前で何をすべきかも、知っている。
ジョゼットが、来た。書簡室は、ド・リール男爵夫人が、十日だけ預かった。「話を十、持っていますから、十日は保ちます」と、彼女は手紙に書いてきた。歪んだ字で。
ブリュイエール夫人は、来なかった。「観客は、舞台に上がらない。式は、舞台よ」と、紫の手紙が来た。代わりに、時計が、一つ届いた。『ヴェルネの時刻に合わせて、置いておいて。私の八つ目の時計を、それに合わせるから』。
あの日、居間の窓のそばに空いていた台は、そのためだった。夫人は、私に教えなかった。時計が、教えた。
妹は、来なかった。
手紙が、来た。妹の字で。丸く、右に傾き、「し」の払いが長い。花は、なかった。
『お姉様
行きません。私が行くと、部屋の空気が私のほうに傾いて、お姉様の式ではなくなるから。それくらいは、分かるようになりました。
月契約は、続けます。ジョゼットが、厳しいです。
ロドルフ様は、自分で手紙を書いています。遅いです。でも、自分で書いています。
ブランシュ』
私は、その手紙を、抽斗に入れた。初夜の紙の隣に。あの紙の隣には、この一年で、ずいぶん物が増えた。
式は、短かった。
司祭が、名を読んだ。オノレ・ド・ヴェルネ。クレマンス。
家の名は、読まれなかった。司祭に、私が頼んだ。カステランでも、モンフォールでも、まだヴェルネでもない名を、一つだけ、読んでほしいと。司祭は、「セルの娘、と付けましょうか」と言った。ナネットの石に、そう彫ってある。私は、頷いた。
クレマンス、セルの娘。
それが、教会で読まれた、私の名だった。
ヴェルネの館は、石造りで、窓が小さかった。北の家は、そういうものだ。冬に熱を逃がさない。
私は、初日に、書き物机を、いちばん大きな窓の前に運ばせた。彼は、「そこは、冬に寒い」と言った。私は、「字を書くには、光が要ります」と言った。彼は、膝を一度叩いて、それから、机の横に、火鉢を一つ置いた。逸脱ではない。もう、逸脱の欄はない。
夕方、製鉄所へ行った。
炉の火を落とす少し前。入口の石の上に、狐が、座っていた。
こちらを、見ていた。
「名前は、つけていない」
と、彼は言った。
「知っています。手紙で読みました」
「欄は、作った。空けてある」
「一行、書いたのでしょう。留守を頼んだ、と」
「……台帳を、見せる前に、言うな」
私は、笑った。声が出た。狐は、動かなかった。
私は、狐の前に、しゃがんだ。膝は、つかなかった。膝をつく相手は、もう、決めてある。
「私も、名前は、つけません」
と、私は、狐に言った。
「でも、貴方の皿は、見ます。パンだけでは、足りないでしょう」
狐は、こちらを見ていた。彼が、後ろで、肩を一度、上下させた。
夜、二冊と二十四枚を、机に並べた。
私の帳面。侯爵夫人の一年と、書簡室の一年。
彼の台帳。二十四枚。写しではなく、本物。上着の内側に、二年入っていた紙。折り目が、深い。
一年後に、両方、見せ合う。門の前で、彼はそう言った。一年と、少し。私たちは、机の両側に座って、相手のものを、読んだ。
彼は、私の帳面の、一頁目で、止まった。
『契約締結。相手役は演じない。正直にやる、とのこと。内容不明。』
「内容不明、か」
「二年前は、不明でした」
「今は」
「分かりました。上着と、皿と、手袋と、印材と、川の名でした。それが、内容でした」
彼は、頷いた。
それから、二頁目。『逸脱、一件。上着。』の横に、私が線を引いて消した、小さな数字を見つけた。二十三年と、三週間。消してあっても、読める。
「数字が合わなかったので、消しました」
「今は、合うか」
「合います。あの人は二日で気づき、貴方は三週間かかった。……ただ、貴方は、その後、二年、見続けた。数字は、そちらで合わせます」
私は、彼の台帳の、最後の頁を、読んだ。
昨日の日付だった。式の、前の日。
『逸脱、なし。
すべて、本物。』
私は、その二行を、しばらく見ていた。
五件目の空白は、その上に、埋まっていた。私の返事の手紙の、あの一行が、彼の字で写してあった。『五件目。私も、破りたかった。』そのあとに、彼の字で、一行。『五件目。俺も。』
俺も、の二文字は、他の字より、大きかった。
「見出しを、決めましょう」
と、私は言った。
「二冊と、二十四枚を、一つに。見出しがないと、私は、不安になる質です」
「知っている」
「何と」
「あなたが、決めろ」
「では、二人で書きます」
私は、厚紙を一枚出した。
上の半分に、私の字で、書いた。クレマンス。歪んだ。
下の半分を、彼に渡した。彼は、書いた。オノレ。歪んだ。木と鉄を持つ手の字。
二つの歪んだ名が、一枚の厚紙に、並んだ。
見出しは、それだけにした。ほかに、書く言葉がなかった。この記録の中身は、全部、この二つの名の間で起きたことだ。名の間で起きたことに、名以外の見出しは、要らない。
翌朝、ヴィエの上流へ行った。
馬車ではなく、歩いて。二時間。私の歩幅で。彼が、合わせて。
三百本の若木は、まだ、私の背より低かった。
湿った土に、細い幹が、川に沿って、並んでいる。花も、実も、ない。根が、ついている。それは、見ても分からない。彼が、そう言うから、そうなのだ。
地味な木を、見に来る人は、いない、と手紙にあった。
「見に来る人が、いました」
と、私は言った。
「一人、いた」
「記録してください」
「した。……昨夜。台帳の、最後の行の、次に」
「何と」
「見せる前に、訊くな」
私は、笑った。彼も、たぶん、笑った。声は出さなかった。肩が、一度、上下した。
川の音がした。ヴィエだ。木の川。私は、もう、どの川か分かる。
彼が、若木の列を見ながら、言った。前を見たまま。
「二年、我慢した」
「何を」
「あなたが好きだ、と書くのを。台帳にも、書かなかった。書けば、逸脱になる。逸脱は、次の回で修正する、とあなたが言った。修正できないものは、書けなかった」
彼は、私を見た。
「今日から、逸脱ではない」
私は、待った。
「好きだ」
と、彼は言った。
それだけだった。北の男の「好きだ」は、王都の男の十行より、短くて、長い。
「記録します」
と、私は言った。
「してくれ」
私は、館に戻って、手紙を書いた。
ブリュイエール伯爵夫人へ。観客への、報告だ。三十年、待ってくれた人には、報告が要る。
書簡室のこと。ジョゼットが厳しいこと。狐に名前をつけなかったこと。時計を、ヴェルネの時刻に合わせて、いちばん大きな窓の横に置いたこと。
最後に、一行、書いた。二十五年、他の人の動詞だった言葉を、初めて、自分の動詞として。
『私は、ヴィエの上流にいます。行きたい場所です。』
署名は、クレマンス。
家の名は、今度は、自分で選んだものだ。それでも、署名は、名だけにした。名だけが、最初から、私の物だったから。
封をして、Cを押した。歪んだ線。ハンノキ。
手紙は、五日で、王都へ着く。
五日は、もう、長くなかった。待っている人が、五日先ではなく、隣の部屋にいるからだ。
彼の台帳の、最後の行の、次の行を、私はまだ、見ていない。
見せる前に、訊かない。
訊かないものは、明日、見る。明日は、数えなくても、来る。
二十五年で、初めて、そう思った。
(終)




