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愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


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第34話 番外・女中頭の枝(マルト視点)

 家の良し悪しは、一年に何人、下働きが辞めるかで分かる。

 私は、モンフォール家に十七年いる。先代の奥様の頃は、年に一人。奥様が亡くなってからの六年は、年に四人。仮の奥様がいらした一年は、ゼロ。今は、年に二人。

 それが、この家の、私の知っている全部の数字だ。


 仮の奥様、と、私は最初、あの方を呼んでいた。

 口には出さない。心の中で。屋敷の全員が、そう呼んでいた。二年で出る奥様。旦那様が、そう決めていた。旦那様の決めたことは、この家では、壁に書いてあるのと同じだ。


 あの方は、来た翌朝、帳簿を求めた。三年分。

 私は、旦那様の許可を、確かめようとした。旦那様は、もう出かけていた。あの方は「昨夜いただきました」と言った。私は、その言葉を、信じなかった。信じない顔は、しなかった。女中頭は、顔をしない。


 二週目に、給料が月払いになった。

 私は「先代からの慣例です」と言った。あの方は「先代の慣例で、下働きが年に四人辞めています」と言った。私は、その数字を、あの方に言ったことがなかった。帳簿から、読んだのだ。二週間で。


 リゼの子が熱を出したのは、その冬だった。

 月払いでなければ、医者は呼べなかった。私はそれを、あの方に、玄関で伝えた。伝える義務は、なかった。伝えたのは、たぶん、数字を返したかったからだ。あの方が帳簿から読んだ数字に、私も、一つ、返したかった。


 手袋のことは、屋敷の全員が知っていた。

 絹の手袋で、冬の公園に行かれる奥様。夫人費が、五か月、一度も動かない帳簿。それから、ある日曜に、灰色の革の手袋をして帰ってこられた。誰が買ったか、旦那様以外の全員が知っていた。

 私は、次の日曜から、馬車に温めた煉瓦を入れた。誰にも言われなかった。女中頭は、言われないことをするのが、仕事だ。


 枝のことを、書いておく。


 先代の奥様は、花瓶の枝を、自分で選ぶ人だった。

 春は柳、夏は青楓、秋は実のついた梶、冬は山茱萸の赤い実。地味だ、と旦那様の父上は言った。奥様は「この家の玄関は、天井が高いから、花では負けるのです」と言った。私は、それを、六年、聞いていた。

 奥様が亡くなって、花瓶には、花屋が届けるものが入るようになった。薔薇。百合。何でもいい。誰も、見ていなかった。


 仮の奥様が来て、三日目の朝、玄関の花瓶に、柳が入っていた。

 誰も、頼んでいなかった。誰も、先代の奥様の枝のことを、あの方に話していなかった。あの方は、天井を見て、花瓶を見て、庭を歩いて、柳を切ってこられた。それだけだ。

 私は、その朝から、あの方を見るようになった。

 仮の奥様、と、心の中で呼ぶのを、その朝から、やめた。


 木曜、子爵が、玄関で待たれる。

 あの方が下りてこられるまで、五分か、十分。子爵は、その間、必ず、ジョゼットに訊かれた。

「奥様は、昼を召し上がったか」

 毎週。一年。

 召し上がっていない、とジョゼットが答えた日は、子爵の上着の内側から、栗の袋が出た。あの方は、馬車の中で、それを召し上がった。ジョゼットが、そう報告した。侍女は、皿を下げるのが仕事で、女中頭は、侍女の報告を聞くのが仕事だ。


 だから、この夏、北から手紙が来たとき、私は迷わなかった。

 ヴェルネ子爵から、モンフォール家女中頭マルトへ。子爵が、女中頭に手紙を書く。この国のどこにも、そんな作法はない。あの方は、作法を知らない。知らないまま、正直に書かれた。

『推薦人になってもらえるか。』

 私は、一行、返した。

『推薦いたします。奥様の皿を見る方として。』

 それ以上、書くことはなかった。一年、毎週、昼を召し上がったかと訊いた人だ。それ以上の資格を、私は知らない。


 春の奥様は、花瓶を薔薇に替えられた。

 大きな、赤い薔薇。私は、何も言わなかった。女中頭は、言わない。旦那様が、花瓶を見て、何かが違う、という顔をされた。何が違うか、旦那様は言えなかった。言えないことについて、私は、何も申し上げない。


 秋に、春の奥様が、玄関で私に訊かれた。


「マルト。前は、何が入っていたの」


 私は、庭に出て、梶の枝を切って、花瓶に入れた。薔薇の隣に。


「……地味ね」


 と、奥様は言われた。

 それから、しばらく、天井を見て、花瓶を見て、言われた。


「でも、この家に、合うわ。……薔薇は、私の部屋に」


 薔薇は、奥様の部屋に移った。玄関には、梶が残った。

 春の奥様は、この秋から、第三区に通っておられる。月契約で。手紙が、少し、遅くなくなった。花瓶の枝を、地味ね、と言ってから、合う、と言い直すのに、あの方は、二秒かかった。前は、言い直さなかった人だ。二秒は、数字だ。私は、数字を覚える。


 春、北へ行った。

 休暇を取るのは、十七年で初めてだった。旦那様は、理由を訊かなかった。訊かないのが、あの方の礼儀になった。前は、訊く必要がないから訊かない人だった。今は、訊けないから訊かない人だ。私は、どちらも、女中頭として、お仕えする。


 セルの村の教会の裏で、川にいちばん近い石の前に、立った。

 ナネット・ル・ルー。セルの娘。

 乳母だった人だ。あの方の皿を、最初に見た人。私は、この人の顔を知らない。ただ、同じ勤めの人だ。誰かの家で、誰かの子の皿を見る勤め。


 私は、報告した。

 声には出さない。女中頭は、声を出さない。


 奥様は、月払いにして、下働きを一人も辞めさせませんでした。玄関の枝を、教えられずに、正しく選ばれました。牡蠣は、屋敷の全員が、二週目までに知っておりました。旦那様以外は。

 皿を見る方が、二人目が、来ました。子爵です。毎週、昼を召し上がったかと訊いた人です。推薦いたしました。

 以上です。


 それだけ言って、私は、石に、一礼した。同じ勤めの人に。

 枝は、置かなかった。墓に枝は要らない。花瓶がないからだ。


 王都に戻ると、旦那様が、書斎で手紙を書いておられた。

 自分の声で。ルネが言うには、一通に、一時間かかる。前は、署名に十秒だった。

 遅い。でも、書いておられる。四十枚を、机の左に置いて。


 今朝、玄関の花瓶に、柳を入れた。

 春だ。柳の季節だ。先代の奥様が、そう教えた。仮の奥様が――いや、あの方が、三日目の朝に、教えられずに、選ばれた枝だ。

 誰も、それを、正しい枝だとは言わない。

 言われなくても、正しい枝は、正しい。

 あの方が、そう教えた。言葉では、一度も。


お読みいただきありがとうございます。

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