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愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


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第32話 観客の権利

 ブリュイエール伯爵夫人の居間には、時計が七つあった。

 今日は、八つ目の席が、空けてあった。壁の、窓のそばに、何も置かれていない台が一つ。私は、それを見て、意味を考えなかった。考えても、夫人は教えてくれない。時計が教えてくれる日まで、待つ人だ。


 社交期の、最初のサロン。

 王都の女たちが、三十人。今年、何を話題にするかを、この部屋が決める。シャルヴィル内務卿夫人が、いた。ヴァレンヌ公爵夫人が、いた。モラン男爵夫人と、その姑が、いた。姑は、私を見て、自分の名を書くときの手つきで、扇を上げた。

 ド・リール男爵夫人は、私の袖を引いて、「話を、十、持ってきました」と言った。十八歳の顔が、去年より、少し、大人だった。


 そして、妹が、いた。

 モンフォール侯爵夫人として。淡い水色。飾りは、半分。夫は、いない。午後のサロンに、男は来ない。

 妹は、私を見て、頭を、少し、下げた。私も、下げた。同じ角度で。


 私は、扇を持っていなかった。

 この一年、持たなくなった。口元を隠す必要が、なくなったからだ。隠すものが、なくなったのか、隠さなくていいと決めたのか、自分でも分からない。分からないものを、持たずにいられるようになった。

 手には、封筒を、一通。Cの印。


 いちばん大きな時計が、三時を打った。

 ほかの時計は、打たなかった。


「今日は、時計を、止めてあるの」


 夫人が、立ち上がって言った。


「あれ一つを除いて。今日、この部屋で起きることは、一つの時刻だけで、いいから」


 三十人が、静かになった。夫人が立って話すことは、三十年で、ほとんどない。座って、聞く人だ。


「私は、三十年、観客をしてきた」


 と、夫人は言った。


「舞台に、上がったことはない。今日も、上がらない。ただ、観客には、一つだけ、権利がある。演技が下手だ、と言う権利。二年前、私はこの部屋で、それを、一度、使った。ある男を、私が三十年見てきた中で、いちばん演技の下手な男だと」


 誰かが、小さく笑った。あの若い令嬢だ。二年前、妹に「口説かれていないから、胸が痛くなる」と言った人。


「今日、もう一度、使う」


 夫人は、部屋を、ゆっくり見た。七つの時計を、順に見るときと、同じ目で。


「私が見たことだけを、言う。私は一年、王立劇場の正面の桟敷から、二階の桟敷を見ていた。侯爵夫人と、北の子爵を。あの男は、一年、一度も、あの人の手に触れなかった。馬車の乗り降りのほかは。芝居を見て、あの人に何か訊いて、答えを聞いて、また芝居を見た。それだけを、百回」


 部屋は、静かだった。


「北街道の宿『三本川』の帳場には、私の時計が一つある。その時計は、こう言っている。部屋は、二つだった。二階の角と、一階の奥。往きも、帰りも。女将が、二度、宿帳に書いた」


 夫人は、扇を、閉じた。


「あれが不貞なら、私は、修道女よ」


 部屋が、笑った。

 シャルヴィル夫人が、最初に笑った。それから、公爵夫人。三十人。噂が作られる部屋で、噂が、笑いに変わった。この部屋で、噂を殺す方法は、一つしかない。笑うことだ。夫人は、三十年、それを知っていて、一度も使わなかった。今日、使った。


「それから」


 夫人は、笑いが収まるのを待って、言った。


「『王都便り』の三段目を書かせた口が、この部屋にいることも、私は知っている。名前は言わない。観客は、筋書きを暴かない。……ただ、その口が、この秋から、第三区で、自分の手紙を書く練習をしていることも、知っている。月契約で。上乗せ付きで」


 妹の顔が、赤くなった。

 妹は、扇を、膝に置いていた。角度は、なかった。上げなかった。隠さなかった。私は、それを、見た。見て、何も言わなかった。妹は、赤いまま、まっすぐ前を見ていた。それで、足りた。


「さて」


 夫人は、扉のほうを見た。


「今日、その男が、この部屋に、応募書類を出しに来る。職位は、私は言わない。……演じない男は、この部屋に入ってくるとき、たぶん、扉を、斜めに通る」


 扉が、開いた。


 彼は、斜めに通った。

 肩を、少し、傾けて。六日、馬で来た男の外套だった。埃が、裾についていた。髪は、自分で切った髪だった。三十人の女が、彼を見た。彼は、見られている顔をしなかった。北の狩人の習性で。


 彼は、部屋を、横切った。

 演じなかった。口説く顔も、見つめる顔も、しなかった。ただ、歩いた。私の歩幅ではなく、自分の歩幅で。私が、座っているからだ。


 私の前で、止まった。

 床板にして、七枚分。初夜の寝室で、夫と私の間にあった距離と、同じだった。それは、たぶん、偶然だ。偶然でも、私は数えた。数えるのは、得意だ。


「応募書類の、返事を」


 と、彼は言った。いつもの大きさの声で。


「はい」


 私は、立ち上がって、封筒を、差し出した。

 彼は、受け取った。手袋の指先と、彼の指の間に、一寸の距離があった。まだ、解除の前だ。彼は、それを、守った。読むまでは。


 彼は、立ったまま、封を切った。

 読んだ。


 部屋は、静かだった。時計は、一つも打たなかった。夫人が、止めていた。

 私は、彼の顔を見ていた。

 二年前、この部屋で夫人が言った顔ではなかった。銭を拾って、誰に返せばいいか分からない男の顔。今日の顔は、違った。届ける先を、見つけた男の顔だった。北では、落とし物は、届ける。届ける先は、いつも決まっている。


 彼は、読み終えた。

 紙を、もう一度、最初から読んだ。二度目だ。三度目は、たぶん、最後の行だけ読んだ。


「返事は?」


 夫人が、言った。


「部屋が、待っているのよ」


 彼は、紙から、顔を上げた。

 私を見た。それから、部屋を見た。三十人を。


「――はい、と書いてある」


 と、彼は言った。


「彼女の印がある」


 彼は、封筒を、掲げた。

 Cの印。歪んだ線。


「何の印?」


 誰かが、訊いた。モラン男爵夫人の姑だった。目が弱くて、遠くの印が見えない人。


「彼女の印だ」


 彼は、姑のほうを向いて、答えた。訊かれれば、答える人だ。


「自分で彫った。ハンノキだ。歪んでいる。……正しい印だ」


 姑は、扇を、上げた。自分の名を書くときの手つきで。


 彼は、私に、向き直った。


「接触の禁止は、解除、と書いてある」

「はい」

「乗り降りの例外規定は、廃止、と」

「はい。例外である必要が、なくなったので」


 彼は、手を、差し出した。

 馬車の踏み台の前で差し出す手ではなかった。何の規定にもない、ただの、手だった。


 私は、灰色の革の手袋を、外した。

 右手の。二年前の冬、西公園の露店で、彼が「小道具だ」と言って買って、「返すなよ」と言った手袋。私は、それを、二年、返さなかった。今日、初めて、外した。


 彼の手を、取った。

 素手で。

 大きくて、乾いていて、硬かった。木と鉄を持つ手だ。半秒、離れなかった。半秒どころではなかった。誰も、数えなかった。私も、数えなかった。数えないものが、一つできた。


 最初に手を叩いたのは、ド・リール男爵夫人だった。

 十八歳。話を十、持ってきた人。彼女が叩いて、シャルヴィル夫人が叩いて、公爵夫人が叩いて、三十人が叩いた。

 妹は、遅れて叩いた。扇を膝に置いたまま、遅れて、でも、叩いた。私は、それを見た。妹も、私を見ていた。二人とも、何も言わなかった。言う欄は、あった。今日は使わなかった。次に使う。月契約だから。


「手配は、あなた?」


 シャルヴィル夫人が、ブリュイエール夫人に訊いた。

 夫人は、扇を開いた。角度は、十五度。新しい話題を見つけた、の角度。


「私よ。三十年で初めて、観客が、舞台裏に回ったの。……悪くない引退公演でしょう。引退は、しないけれど」


 彼は、私の手を、離さなかった。

 私も、離さなかった。


「川の名を」


 と、私は、小さく言った。三十人には、聞こえない声で。彼にだけ、聞こえる声で。扇は、なかった。隠さなくても、届く距離だった。


 彼は、頷いた。

 それから、言った。北の男の声で。低く、語尾に、少し、訛りを残して。


「ロンヌ。ヴィエ。セル」


 私は、その三つを、知っていた。手紙で読んだ。帳面の余白に書いた。七つまで、毎晩、旋律の中で聴いていた。

 でも、旋律なしで、その人の声で聞いたのは、初めてだった。


「知っていました」


 と、私は言った。


「知っていて、聞きたいと書いた」

「はい」

「もう一度、言うか」

「はい」


 彼は、もう一度、言った。

 いちばん大きな時計が、三時半を打った。ほかの時計は、打たなかった。夫人が、この部屋の時刻を、一つにしてくれていた。

 私は、その時刻を、帳面に書くつもりだった。逸脱の欄ではない。逸脱の欄は、今日、閉じた。

 新しい欄の、一行目に。見出しは、まだ、決めていない。決めるのは、二人で、北で、と思った。


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