第31話 応募書類
社交期の初日、二通の手紙が来た。
一通目は、淡い紫。ヒースの花の封蝋。
『明日、私のサロンへ。今年最初の。話題を決める日よ。』
二通目は、厚かった。
封蝋は、緑。葉の形。ハンノキの葉だと、私は知っていた。二年前は、知らなかった。
宛名。『クレマンス書簡室 クレマンス様』。
大きな、歪んだ字。
私は、店の、大きな窓の前の机で、封を切った。
ジョゼットが、帳簿の向こうから、こちらを見て、それから、見ないことにした。良い侍女だ。
中には、紙が、三種類あった。
一枚目は、役所の紙だった。
線が引かれ、欄が作られている。製鉄所の許可を取る書式だと、あとで知った。北の男は、王都の作法を知らないが、役所の紙は知っている。
『応募書類
応募先 クレマンス書簡室
職位 夫
氏名 オノレ・ド・ヴェルネ
年齢 三十三
資格 北で、木と鉄をやっている。踊れない。演じない。皿を見る。
債務 なし(完済証明、添付)
推薦人 三名
一 マルト(モンフォール家女中頭)
「推薦いたします。奥様の皿を見る方として。」
二 ブリュイエール伯爵夫人
「推薦するわ。演技が下手な男を、三十年ぶりに。」
三 狐(ヴェルネ製鉄所)
返事なし。今日も、石の上に座っていた。
添付 完済証明、一枚。台帳の写し、二十四枚。逸脱一覧、一枚。
備考 本人は、この書類の一日後に着く。返事は、書面で、直接、受け取りたい。』
私は、それを、二度読んだ。
三度目は、資格の欄だけ読んだ。踊れない。演じない。皿を見る。
三度目に、笑った。声が出た。ジョゼットが、こちらを見て、また、見ないことにした。
二枚目は、公証人の紙だった。
『ヴェルネ子爵オノレは、モンフォール侯爵家に対する債務、金貨四千枚を、完済した。残債、なし。』
日付は、夏の終わり。
私は、その紙を、初夜の紙の隣に置くことにした。片方は、私の出口を書いた紙で、片方は、あの人の出口を書いた紙だ。二枚、並ぶのが、合っている。
三種類目は、台帳の写しだった。
二十四枚。
私は、読んだ。
最初の頁は、二年前の秋だった。
『栗売りの前で、足を止める。買わない。値段を見て、それから歩き出す。三度。』
『劇場へ向かう馬車の中で、海運新聞を読む。北の港の船の出入りの欄。なぜ海運。訊いていない。』
『皿を見ないと、食べていない。パンだけのときがある。』
『笑うとき、口元を扇で隠す。笑っていないときも隠す。区別が難しい。』
『鼻歌。馬車の中。俺が眠っていると思ったとき。』
『北の歌。ヴェルネの子守歌。なぜ知っている――訊けない。』
訊けない。
私は、その二文字を、指で触った。二年前のインクだ。写しだから、この夏のインクだ。でも、私には、二年前のインクに見えた。
劇場の頁があった。
『廊下。実家の桟敷。妹の裾、十センチ。侯爵夫人が、膝をついた。硬い床に。四針。「お姉様、遅い」。「動かないで」。誰も見ていない。母親も、父親も、妹も。
俺が、見ていた。』
私は、そこで、読むのを、少し止めた。
泣くかと思った。泣かなかった。泣くのは、後。先に、インク。私は、十八歳の男爵夫人と妹に、そう言った。自分にも言った。
続きを読んだ。
『役は、やる。ただし、この二年の間、あの人が人間として扱われる時間を、俺が作る。皿を見る。上着を掛ける。訊いて、答えを聞く。それだけだ。それ以上のことは、俺には何もできない。北の男に、渡せる物はそれしかない。』
それしかない、と彼は書いていた。
私は、二年前、それを「逸脱」と呼んで、次の回で修正するものとして記録していた。
彼は、それを「渡せる物」と呼んでいた。
同じ物が、二冊の帳面で、違う名前を持っていた。
この一年の頁があった。
『手紙、三枚。羊が嫌いだと書いてあった。北で言うな、と返した。返してから、笑った。工長が、何を笑っているのかと訊いた。答えなかった。』
『司祭。二人目が必要、と言った。』
『手紙、三枚。署名が、Cではなかった。名前だった。歪んでいた。俺は、その手紙を、三度読んだ。四度目は、署名だけ読んだ。』
四度目は、署名だけ。
私も、今、四度目は、資格の欄だけ読んだ。同じ読み方をする人が、二人いる。それを、私は、初めて知った。
最後の一枚が、逸脱一覧だった。
『逸脱、一件。上着。
二件。牡蠣の皿。
三件。手袋(返却拒否)。
四件。印材。
五件。――』
五件目が、空いていた。
私の帳面の、「ただし――」の先と、同じ場所だった。
彼は、そこを空けた。私が空けたのと、同じ場所に、彼の空白を置いた。見せ合ったときに、二つの空白が同じ場所にあればいい、と考えたのだと、私は思った。訊いていないから、分からない。分からないが、そう思った。
私は、便箋を出した。
返事は、書面で。彼は、そう書いていた。私が、門の前で、そう言ったからだ。
私は、ペンを取った。
誰の字で書くか、考えなかった。考える必要が、なくなっていた。一年で、そうなった。
『ヴェルネ子爵 オノレ様
応募書類、受理しました。
審査の結果を、通知します。
職位、夫。採用。
条件は、四つ。
一つ。接触の禁止は、本日をもって、解除します。乗り降りの例外規定は、廃止します。例外である必要が、なくなったからです。
二つ。台帳は、両方、継続します。私の帳面は、二冊になりました。貴方の台帳は、二十四枚です。合わせて、一つの記録にします。見出しは、まだ、決めていません。
三つ。羊は、食卓に出さない。北で、それを言わないことは、約束します。貴方の食卓でだけ、言います。
四つ。私の皿を、見てください。私も、貴方の皿を、見ます。ナネットが、私の一人目でした。貴方が、二人目です。司祭の言う通りでした。
なお、貴方の台帳の五件目の空白について。
私の帳面にも、同じ場所に、空白があります。二つ。今、埋めます。
一つ目。シャルヴィル邸の夜。門の前で、私が訊きかけて、やめたこと。
「貴方は、私を、私に返す人ですか」――そう訊こうとしました。夫人が、貴方を、銭を拾って、誰に返せばいいか分からない男の顔だと言ったからです。返す相手が分からなかったのは、貴方ではありません。私が、私を、受け取っていなかったのです。今は、受け取っています。一年、数えました。好きなものが三つと、嫌いなものが一つと、仕事が一つと、歪んだ署名が一つ。それが、私です。だから、この問いは、訊く必要がなくなりました。空白は、埋めずに、閉じます。閉じた空白は、ゼロです。数えました。
二つ目。ナネットの墓の前。
貴方は、破りたい、と記録しろと言いました。私は、記録しませんでした。空けました。今、埋めます。
五件目。私も、破りたかった。
最後に。行きたい場所を、見つけました。
ヴィエの上流。地味な木を、見に行きます。
川の名を、三つ、教えてください。知っています。でも、貴方の声で、聞きたいのです。
クレマンス』
署名は、歪んだ。
書き直さなかった。
封をして、Cを押した。
歪んだ線の、私の印。木片だったもの。ハンノキ。彼が、去年の春、手袋の指先の一寸手前で止めて、渡してくれたもの。
私は、封筒を、机の上に置いた。
明日、彼が来る。書類の一日後に。返事は、書面で、直接。
夜、二通目の紫の封筒が、届いた。
ブリュイエール夫人。時計が、鳴ったのだ。
『あの男が、明日、王都に着くと、北街道の宿の時計が言っている。
明日、私のサロンへ。返事を持って。
相手は、私が呼ぶ。二年前は、演出家の手配だった。今度の手配は、私。
観客の権利を、使うわ。あなたが望まなくても、と言ったでしょう。』
手配。
二年前、初夜に、夫はその言葉を使った。馬車や花や、婚礼の朝食の牡蠣のように。
今夜、同じ言葉が、紫の紙の上にあった。
同じ言葉が、二年で、こんなに違う重さになる。私はそれを、帳面に書く欄を、持っていなかった。
持っていなくても、今夜は、困らなかった。欄のないものを、そのまま持っていられるようになったのが、この一年の、たぶん、いちばん大きな数字だった。数えられないから、数字ではない。それでも、そう呼ぶことにした。
封筒を、抽斗に入れた。
初夜の紙。完済証明。日記。ロドルフの三行。そして、今夜の返事。
抽斗を閉めて、私は、枕を抱えずに、眠った。
二十五年で、初めてだった。




