第30話 依頼人、モンフォール侯爵
紋の付いた馬車だった。
隠さない人だ。第三区の通りに、モンフォール家の紋を、昼の光の下で止めた。通りの人が、見た。彼は、見られることを、計算に入れていた。入れた上で、来た。それが、この人の正直さだ。
扉が開いて、ロドルフが入ってきた。
店の中を、見た。大きな窓。書類棚の跡。壁の契約書の写し。看板の文字が、窓越しに、裏から読める。
「看板の字が、違う」
と、彼は言った。妹と、同じことを。
「私の字です」
「……そうか」
彼は、客の椰子に座った。座って、と言う前に。この店の椅子には、座る人ばかりが来る。私はそれを、悪いことだと思っていなかった。
「モンフォール家の書簡を、顧問契約で頼みたい」
彼は、前置きをしなかった。有能な男は、前置きをしない。
「月ごとに。額は、君が決めろ」
私は、計算した。
ブリュイエール夫人の月契約が、金貨五。妹が、上乗せで六。
私は、言った。
「月に、金貨二十」
彼は、瞬きを、しなかった。
「安い」
と、彼は言った。
「内務卿の言葉を借りれば、惜しいものの値だ。二十でいい。四半期ごとに、ルネが持ってくる。年金と一緒に」
「はい」
私は、契約書の用紙を出した。書いた。依頼人。内容。月額。期間、一年。更新は、双方の合意で。
彼は、それを読んだ。読んでから、署名した。読まずに署名する人だと、私は知っている。今日は、読んだ。
「一つ、訊いていいか」
署名を終えて、ペンを置いて、彼は言った。
初夜の、扉の前の声だった。なぜ怒らない、と訊いた声。
「どこかに――私が、君を、失わない筋が、あったのか」
私は、彼を見た。
彼は、私を見ていた。私の少し横ではなく、私を。それも、初めてだった。
「貴方は、私を、持っていません」
と、私は言った。
「仕事をする妻を、持っていました。一年。契約の通りに。……初夜に、貴方は、一つだけ、本当のことを言いました。愛することはない、と。私は、その上に、人生を建てました」
彼は、何も言わなかった。
「感謝しています」
私は、続けた。
「貴方が、あの夜、それを言わなければ、私は、貴方の声で、書き続けました。三十年。四十年。自分の字を、持たずに。貴方は、私に、出口を、紙で書いてくださった。それは、あの家で私が受け取った物の中で、いちばん、良い物です」
彼は、長く、黙った。
窓の外で、馬車の馬が、一度、蹄を鳴らした。
「私は、君に、嘘をつかなかった」
と、彼は、言った。
いつもの言葉だった。ただ、いつもの声ではなかった。信条を確かめる声ではなく、何かを、差し出す声だった。
「はい」
私は、答えた。
それから、二年、扉に向けて声に出さずに言ってきた続きを、初めて、声に出した。
「見なかったものについては、人は、嘘をつかないで済みます」
彼は、目を閉じた。一秒。開けた。
「……従弟が、劇場で、そう言ったそうだな」
「はい」
「彼は、正しかった」
彼は、それだけ言った。
言えたことに、私は、少し、驚いた。この人が、自分より正しかった人の名を、口に出すのを、私は初めて聞いた。
「抽斗の紙を、読んだ」
と、彼は言った。
「三百枚」
「四百十二枚です」
彼は、私を見た。
「数えたのか」
「帳簿の人間ですから」
「なぜ、あれを。誰も読まないと、君は知っていた」
「合わせるためです」
私は、答えた。
「貴方の声で書いた、という事実と、貴方の声ではない、という事実を。二つが、合わないまま、私の帳面に残るのは、正しくない。だから、一通ずつ、合わせました。読まれるためではありません」
「……四百十二回」
「はい」
彼は、椰子の背に、身体を預けた。二年前、初夜の寝室で、私が泣くか怒るか崩れるかに備えて、そうしたように。今日は、備えていなかった。ただ、預けていた。
「顧問契約は」
私は、契約書の、担当の欄に、ペンを置いた。
「私の弟子に、担当させます」
「弟子」
「はい」
「誰だ」
私は、書いた。
『担当 ブランシュ・ド・モンフォール』
彼は、それを、読んだ。
読んで、しばらく、動かなかった。
それから、笑った。
初めて聞く笑いだった。妹の前の笑いでも、招待状を手にした朝の笑いでもない。声は、低くて、短くて、幸福ではなかった。ただ、正直だった。この人の笑いで、正直だったのは、たぶん、これが初めてだった。
「ブランシュが、ここに」
「先週から。月契約で、通っています。上乗せ付きで」
「上乗せ」
「北街道の宿の件です。請求に、乗せました」
彼は、また、短く笑った。それから、笑うのをやめた。
「……彼女の字は」
「歪んでいます。本人の字です。花は、もう、描きません」
彼は、頷いた。何度も、ではなく、一度。
それから、立ち上がった。
扉の前で、彼は、振り返った。
初夜と、同じ場所で。あの夜は、寝室の扉だった。今日は、店の扉だ。
「クレマンス」
と、彼は言った。
私の名を、彼が呼んだのは、あの夜以来、二度目だった。おやすみ、クレマンス。君は有能だ。あの夜、彼はそう言って、扉を閉めた。
「君の署名を、婚姻院で見た。初めて見た、と思った。五百通、君の字を見ていたのに」
「署名だけが、私でしたから」
彼は、私を、しばらく見ていた。
それから、頭を下げた。侯爵が、書簡室の主人に下げる角度ではなかった。もっと、深かった。それが、何の角度か、私は知らなかった。この人の帳簿に、その欄が今日できたのだ、と思った。私の帳簿にできる欄ではない。
扉が、閉まった。
紋の付いた馬車が、通りを、去った。隠さずに。
ジョゼットが、帳簿の向こうから、言った。
「……林檎の酒、お出ししますか」
「いいえ。要りません」
「はい」
私は、契約書を、壁の写しの隣に、留めた。
依頼人、モンフォール侯爵。担当、ブランシュ・ド・モンフォール。月額、金貨二十。
夜、帳簿に書いた。
収入。顧問契約、一。
帳面の「私」の頁に、書いた。
『依頼人、一名。元夫。担当、妹。』
書いてから、少し、待った。
欄のないものが、来るかと思った。二年、この人からは、欄のないものが来た。毛布。有能だな。惜しいな、という内務卿の言葉を借りた値。
来なかった。
欄は、要らなかった。この一行は、収入の欄と、担当の欄に、綺麗に収まっていた。合っている。合っているものは、私の帳面に、静かに残る。
私は、帳面を閉じた。
あの人は、私を持っていなかった。私も、あの人を、もう、どこにも持っていなかった。それを、今夜、数字で確かめた。金貨二十。担当、妹。
数字で確かめられるものは、私を、裏切らない。
一年は、あと、一週間だった。




