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愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


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第29話 白紙の妹、書簡室へ

 秋の、火曜の午後だった。

 店の扉が開いて、入ってきたのは、妹だった。


 侍女を、連れていなかった。ドレスは、淡い水色。空が晴れていたからだ。でも、いつもより、飾りが少なかった。妹の飾りの数を、私は、二十年、数えてきた。今日は、いつもの半分だった。


「お姉様」


 と、妹は言った。

 それから、客の椰子に、座った。座って、と言わなくても、座る人だ。それは、ブリュイエール夫人と同じだった。理由は、違う。夫人は、自分に値があると知っているから座る。妹は、椅子が自分のためにあると思っているから座る。


「いらっしゃい」


 と、私は言った。

 ジョゼットが、帳簿の向こうで、動かなかった。良い侍女だ。


 妹は、しばらく、何も言わなかった。

 店の中を、見ていた。大きな窓。書類棚の跡。壁に掛けた、Cの印の押された契約書の写し。


「……お姉様、看板、自分で書いたの」

「ええ」

「字が、いつもと違う」

「私の字です」

「いつもの字は」

「いつもの字は、貴女の字と、お母様の字と、旦那様の声でした」


 妹は、私を見た。

 それから、膝の上で、指を組んだ。


「ロドルフ様は」


 と、妹は、小さく言った。


「私を見て、お姉様がいないことを、見るの」


 私は、何も言わなかった。


「食卓で。花瓶の前で。書斎で。私が何か言うと、あの人は、一秒、黙るの。前は、その一秒がなかった、って顔をして。……私、公爵様に、お馬の話をしたの。知らなかったから。誰も、教えてくれなかったから。あの人は、私を責めなかった。責めないのが、いちばん、嫌だった」


 妹の声が、少し、掠れた。

 妹の声が掠れるのを、私は、初めて聞いた。


「抽斗を、見たの。書斎の。開いていたから。お姉様の字で、あの人の手紙の下書きが、山になっていて、全部に、小さい紙が付いていて。『貴方の声で書きました』って。……私、最初、何のことか分からなかった。それから、分かった」


 妹は、顔を上げた。


「お姉様。私の手紙、書いて。前みたいに。お願い」


 私は、妹を見た。

 二十五年。頼まれれば、断らなかった。ドレスも、教師も、部屋も、婚約者も、裾も、恋文も。

 三度目の、いいえ、を、私は、口の中で確かめた。もう、知らない形ではなかった。


「いいえ」


 妹は、瞬きをした。

 二度。


「……お姉様が、私に、いいえ、って」

「はい」

「初めて」

「はい。二十五年で、初めてです」


 妹は、口を開けて、閉じた。ロドルフが、初夜に、そうしたのと同じだった。用意していた二文目の、置き場所がなくなった顔。


「代わりに、教えます」


 と、私は言った。


「正規料金で」

「え」

「一通、銀貨五枚。月契約なら、金貨五。ブリュイエール伯爵夫人が、私につけた値です。それより、下げません」

「私に、お金を取るの?」

「私は一生、みんなに請求してきました」


 私は、ペンを取って、契約書の用紙を、一枚、妹の前に置いた。


「請求書を、送らなかっただけです」


 妹は、契約書を見た。

 長い時間だった。

 それから、小さな財布を出した。妹の、小遣いの財布。私が実家にいた頃は、私が数えていた財布だ。

 金貨が、五枚、机に置かれた。


「月契約で」


 と、妹は言った。

 妹が、自分の財布から、自分のために金を払うのを、私は、初めて見た。ドレスは、母が払った。舞踏会の靴は、父が払った。妹自身が払った物を、私は、一つも知らない。今日、一つ、知った。


「では、最初の課題です」


 私は、便箋を、一枚、置いた。


「ヴァレンヌ公爵夫人へ。馬の話を、謝る手紙」

「……公爵様ではなく、夫人に?」

「公爵に謝れば、公爵は、思い出します。夫人に謝れば、夫人が、公爵に伝えます。伝わり方が、柔らかい。それが、手紙の使い方です」

「なにを、書けばいいの」

「三つ、覚えてください。一つ。欲しいものを、隠さない。貴女が欲しいのは、許しではなく、次の招待です。それを、書く。二つ。花より、物。物より、手間。謝る言葉より、公爵夫人が今、何を欲しがっているかを、一つ調べて、それについて書く。三つ。三日以内。もう、四か月、過ぎています。四か月遅れた理由ではなく、四か月の間に起きた良いことを、一つ、書く」


 妹は、ペンを取った。

 下書きを、書いた。

 悪い下書きだった。形容詞が多く、謝りすぎで、欲しいものが隠れていて、良いことが一つも書いていなかった。妹の人生に、この四か月、良いことは、たぶん、なかったのだ。


 私は、赤で、直した。

 六割、直した。四割、妹の言葉が残った。四割で、いい。


 妹は、直された紙を、見た。

 それから、泣いた。


 声を出して。妹は、声を出して泣く。私と違って。赤子の頃から、そうだった。母が「うるさい」と言うのは、いつも、私にだった。


 私は、慰めなかった。

 ジョゼットも、林檎の酒を、出さなかった。私が、目で、止めたからだ。


 私は、ペンを、妹の手に、持たせた。


「泣くのは、後」


 と、私は言った。


「先に、インク」


 妹は、泣きながら、私を見た。

 それから、泣きながら、清書を始めた。


 私は、妹の後ろに、立った。

 二十年、妹の裾を留めるとき、私は、床に膝をついた。今日は、立った。

 そして、妹の肩に、手を置いた。一度だけ。


 置いた手を、すぐに、離した。それだけで、よかった。

 妹の肩に、私が手を置いたことは、たぶん、生まれて初めてだった。裾には、千回触れた。肩には、一度もなかった。裾は、私の仕事だった。肩は、対等な人が触れる場所だ。


 妹の手が、止まった。

 泣くのを、やめた。

 それから、また、書いた。


 書き終えて、妹は、署名した。


「ブランシュ」


 歪んでいた。

 妹の字は、丸くて、右に傾く。「し」の払いが長い。それは、私が二十年、真似してきた字だ。今、本物が、私の前で、歪んでいた。

 文末に、花が、なかった。

 小さな花を、妹は、描かなかった。忘れたのか、やめたのか、私は、訊かなかった。訊く欄は、あったが、使わなかった。


「……お姉様」


 妹は、便箋を、封筒に入れながら、言った。


「ノルマン夫人に、言ったの、私。北街道の宿のこと。……お姉様が、見られてるのが、嫌で」


 私は、頷いた。


「知っていました」

「怒って、ないの」

「怒っています」


 妹は、私を見た。


「請求に、上乗せします。月契約、金貨六」


 妹は、しばらく、私を見ていた。

 それから、笑った。泣いたあとの顔で。抑えた、少し掠れた、誰にもついていっていない笑い方だった。私の笑い方に、似ていた。姉妹だから、だろう。二十五年で、初めて、そう思った。


「……どうして、言わなかったの」


 妹は、帰る前に、扉の前で、訊いた。


「全部、お姉様がやってたって。帳簿も、手紙も、私の礼状も、ロドルフ様のことも。どうして、一度も」

「貴女が、訊かなかったからです」


 私は、答えた。


「そして、私が、言うことを、覚えていなかったからです。二人とも、同じだけ、下手だったのです。貴女は訊くのが、私は言うのが」


 妹は、扉に手を置いたまま、立っていた。


「私、お姉様のこと、何も知らない」

「牡蠣が、食べられません」

「……え?」

「二十五年、誰も知りませんでした。今、貴女が、知りました。一つ目です」


 妹は、口を開けた。

 婚礼の朝食を、思い出したのだと思う。銀の皿。氷の上の、六つ。北の海から今朝届いた、と父が自慢した。妹は、それを大好物と言って食べた。


 妹は、何も言わずに、頭を下げた。

 私に。深く。

 それから、出ていった。侍女なしで、自分の足で、馬車まで歩いた。


 夜、帳簿に書いた。

 収入。月契約、七。うち一つ、上乗せあり。

 帳面の「私」の頁に、書いた。

 妹の肩に、手を置いた。一度。

 妹が、私の牡蠣を、知った。一つ。


 数えるものが、増えた。一年で、どこまで数えられるか、私は知らなかった。一年は、あと、二週間だった。


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