第28話 幕間・秘書の給料(伯爵夫人視点)
私は、神経が弱い。
医者が、そう言った。二十年前に。それから、私の周りの人は、私の神経に障ることを、しないようになった。夫も、娘たちも、使用人も。それは、良い家庭の形だと、私は思っている。
その家庭の形が、この春から、少し、崩れている。
「合わん」
夫が、書斎で、帳簿を叩いていた。夫は数字が嫌いだ。嫌いな物を叩くのは、夫の癖だ。
「領地の帳簿が、三か月、合わん。管理人は何をしている」
「管理人は、以前と同じことをしています、旦那様」
執事が、そう言った。
「以前は、毎月、王都から、帳簿の訂正が郵便で届いておりました。管理人はそれを写して、帳簿を直していただけです」
「誰からだ」
「クレマンス様からです。十四の年から。毎月」
夫は、帳簿を叩く手を、止めた。
「……あの子が」
「はい。管理人は、クレマンス様の訂正を、十年、写しておりました。今年の春から、来なくなりました。それで、合わなくなりました」
私は、居間で、それを聞いていた。扉が開いていたからだ。
あの子が。
私は、その言葉を、居間の椅子で、受け取った。置き場所が、なかった。あの子は、地味で、静かで、何を頼んでも断らない子だった。帳簿を直していた、というのは、あの子について私が知っていることの、どこにも、入らなかった。
夏に、手紙が来た。
ド・ラ・ロシュ夫人から。私の、ただ一人の、本物の友人。十六のとき、同じ修道院の学校にいた。彼女は南の国境の伯爵に嫁ぎ、私は王都に残った。二十五年、会っていない。二十五年、手紙だけが、続いていた。
毎年、彼女の聖名祝日に、私は贈り物と手紙を送っていた。彼女も、私の祝日に。二十五年。
『二十五年で、初めて、貴女の便りが来ませんでした。
私は、何か、貴女を怒らせたのでしょうか。それとも、お加減が。
返事を、ください。短くていいの。貴女の字を、見たいだけ。』
私は、手紙を、二度読んだ。
私の字。
私は、彼女に、二十五年、手紙を書いていた――と、思っていた。書いていたのは、最初の十五年だ。それから十年、私は、神経が弱くなって、書いていなかった。誰かが、書いていた。私の字で。私の言い回しで。私の署名で。
誰か。
彼女の祝日が、いつだったか、私は、思い出せなかった。
便箋を、出した。
ペンを、取った。
二十五年の友人に、書くことが、なかった。何を書いていたのか、私は知らない。十年、読んでいなかったからだ。書かれた手紙を、私は、読んでいなかった。署名だけ、私のものだった。いや、署名も、私のものではなかった。
ブランシュを呼んだ。
「貴女、書いてくれない? お母様は、神経が」
「私、書けないわ、お母様。上手く。……お姉様が」
娘は、そこで、言葉を止めた。
私も、止めた。
手紙は、書かれなかった。
秋に、ド・ラ・ロシュ夫人からの手紙は、来なくなった。二十五年で、初めて。私は、それを、神経のせいにした。神経が弱いと、手紙が書けない。それは、本当だ。本当のことは、私を、守ってくれると思っていた。
秋の終わりに、夫が、秘書を雇った。
王都の紹介所から来た、四十くらいの男。領地の帳簿、社交の書簡、社交暦、贈り物の手配。全部、やる、と言った。
「給料は」
「年に、金貨百二十でございます、伯爵様」
夫の顔が、赤くなった。
「百二十」
「王都の相場でございます。書簡と帳簿と暦を一人でこなす者は、それより下では、おりません」
「……娘は、無料だった」
夫は、そう言った。
言ってから、自分の言葉を、聞いた顔をした。
私は、居間にいた。扉が開いていた。
娘は、無料だった。
夫の言葉は、いつも、正確だ。数字が嫌いな人は、ときどき、数字で、いちばん正確なことを言う。
秘書は、雇われた。
金貨百二十。ブランシュのドレスが、年に、四着分。私はそれを、そう換算した。換算して、初めて、あの子が十年間、この家で何をしていたかが、私の中の、どこかに、入った。ドレス四着分の欄に。
それ以外の欄は、私には、なかった。
夜、夫が、居間に来た。
珍しいことだ。夫は、夜、私の居間に来ない。神経に障るから。
「クレマンスが、していたのか」
と、私は訊いた。
「帳簿も、手紙も、贈り物も。あの子が」
「そうらしい」
「何も、言わなかったわ」
「あの子は、何も言わなかった」
夫は、そう言った。
それから、二人とも、何も言わなかった。
何も言わなかった。
あの子は、何も言わなかった。私たちは、何も訊かなかった。それが、この家の形だった。良い家庭の形だと、私は思っていた。私の神経に障ることを、誰もしない家。
あの子は、二十三年、私の神経に障らなかった。一度だけ、七つのとき、玄関で泣いた。乳母が北へ帰る日に。私は「うるさい」と言った。ブランシュが赤子で、泣いていたから。二人が泣くと、神経に障る。
あの子は、その日から、泣かなかった。
私は、それを、良い子になった、と思った。
私は、その記憶を、そこで、閉じた。
開けておくと、神経に障る。医者が、そう言った。二十年前に。
それが、全部だった。
この家で起きたことは、それで、全部だった。帳簿が合わなくなり、友人が手紙をくれなくなり、秘書に金貨百二十を払うようになった。誰も、死んでいない。誰も、破滅していない。ブランシュは、侯爵夫人になった。私は、神経が弱い。
全部、前と同じだ。
ただ、花瓶の枝が、この春から、いつも、少し、間違っている。誰が選んでいたのか、私は、今も、知らないことにしている。




