第27話 幕間・引継書(ロドルフ視点)
春、私はブランシュと結婚した。
式は、質素にした。前妻を解放した男が、半年で盛大な式を挙げるのは、筋が通らない。それは正しい判断だった。社交界の一部は、私を寛大な男と呼んだ。一部は、呼ばなかった。呼ばなかった側の中心に、ブリュイエール伯爵夫人がいることを、私は知っていた。あの夫人の時計は、私の家のことを、あまり言わなくなった。それは、良い兆しではない。噂の女王が沈黙する家は、噂にもされない家だ。
屋敷は、明るくなった。
ブランシュは、玄関ホールの花瓶を、薔薇に替えた。大きな、赤い薔薇。女中頭は、何も言わなかった。私は、花瓶を見て、何かが違う、と思った。何が違うのか、言えなかった。前は、枝だった。季節の枝。地味だった。それが、正しい枝だと、私は引継書で読んだ。読んだのは、その日ではない。
晩餐は、華やかになった。
ブランシュは、食卓で、よく笑う。彼女が笑うと、客も笑う。彼女は、部屋の空気を傾ける人だ。私は、それを、二年前の舞踏会で見た。今、私の食卓で、毎晩、見ている。
見ていて、私は、ときどき、気づく。会話に、穴が開いていることに。
誰かが話し終えて、次の話題が来るまでの、二秒。前は、その二秒がなかった。誰かが、埋めていた。埋めた穴は、穴に見えない。だから、私は一年、この食卓に穴があることを知らなかった。今、穴がある。それで、前は埋まっていたのだと、初めて知った。
ルネが、溺れ始めたのは、四月だった。
「旦那様。シャルヴィル夫人からの手紙が」
「返事は」
「……三週間、出ていません」
「なぜ」
「奥様が、お持ちでした。夫人から奥様への手紙は、奥様が返事をなさるものだと、僕は――」
ブランシュは、手紙を、化粧台の抽斗に入れていた。請求書だと思った、と言った。金の縁の封筒を。
彼女を、責めなかった。
彼女は、手紙を書いたことがない。十九年、誰かが書いていた。誰かが、誰だったか、私は知っている。知っていて、値をつけなかった。
五月、内務卿の執務室に呼ばれた。
「今年は、見送ろう」
と、内務卿は言った。
「評議会の席は、次期に持ち越す。ラ・トゥールで、埋める」
「……理由を、伺えますか」
「君の家の手紙が、また、遅くなった」
彼は、それだけ言った。
三年、遅かった。一年、速かった。今、また、遅い。私は、その三つの期間の境目に、何があったかを、知っていた。知っていて、執務室で、何も言えなかった。
六月、晩餐に、ヴァレンヌ公爵を招いた。
評議会の席は持ち越されたが、公爵の甥はまだ候補にいる。関係を、切らないほうがいい。私はそう判断した。判断は、正しかった。
魚が出た頃、ブランシュが、公爵に言った。
「公爵様は、お馬をお持ちですのね。私、去年、競馬場で素晴らしい栗毛を見ましたの。あんな馬を、いつか――」
食卓が、止まった。
公爵の顔が、白くなって、それから、赤くなった。彼は、二年前、競走馬を失っている。誰かが馬の話をすると、その家の招待を、一年断る。それを、私は知っていた。引継書の十四枚目に書いてあった。読んだのは、その日ではない。
ブランシュは、知らなかった。
誰も、彼女に教えていなかった。
公爵は、デザートの前に、帰った。
ブランシュは、寝室で泣いた。私は、彼女を責めなかった。責める理由が、彼女にはない。彼女は、教えられていないことを、言っただけだ。
では、誰が、教えるべきだったのか。
私は、その問いを、寝室の扉の外で、初めて、自分に向けた。
姉は、四十枚に書いて、去った。読んでいなかったのは、私だ。
翌朝、ルネが、書斎に来た。
手に、紙の束を持っていた。四十枚。
「旦那様。これを、読んでください」
「君が持っていろ。君のために書かれたものだ」
「僕は、覚えました」
彼は、束を、机に置いた。
「でも、奥様が最後の一枚に書いたのは、僕のことではありません。旦那様が、旦那様の声で書く、ということです。……僕は、旦那様の声を、真似できます。四十枚で、覚えました。でも、それは、奥様がしていたことと、同じです。誰かが真似している間は、旦那様は、書かなくていい。奥様は、それを、終わらせたかったのだと思います」
二十五歳の秘書が、私に、そう言った。
私は、彼を、下がらせた。それから、四十枚を、読んだ。
一枚目。私の声。簡潔。断定。形容詞は一文に一つ。相手の功績を一つ、自分の関心を一つ。――私は、自分の声を、彼女の字で、初めて読んだ。彼女が一年、私の声だと信じて書いてきたものを。それは、私の声より、私の声だった。
十四枚目。絶対に守ること。ヴァレンヌ公爵の前で、馬の話は、絶対にしない。
三十九枚目。献立。牡蠣は、献立に入れない――線で、消してある。その下に、書き直してある。春の女主人の好みに、合わせる。
牡蠣。
なぜ、牡蠣を消したのか。私は、その線を、しばらく見ていた。彼女が、自分の規則を、この家に残さないために消したのだ、と、たぶん、分かった。分かったが、なぜ牡蠣が彼女の規則なのか、私は知らなかった。一年、同じ食卓にいて、知らなかった。婚礼の朝食に、牡蠣を並べたのは、彼女の父だ。私は、それを、美味いと思って食べた。
四十枚目。
『この引継書は、一年の記録です。全部、貴方の声で書いてきました。これからは、貴方が、貴方の声で書いてください。ルネは、できます。』
署名欄は、空いていた。
彼女は、この家の書簡に、一度も署名していない。最後の一枚にも、していない。それが帳簿として正しい、と、彼女なら言うだろう。
続けてくれ。
私は、シャルヴィル夫人の招待が届いた朝、そう言った。よくやった。続けてくれ。部下に言う言葉だと、私は知っていた。彼女も知っていた。
続けてくれ、と私が言ったものが、何だったのか。四十枚を読んで、初めて、私はそれの重さを知った。斜面を、支え続けてくれ、と、私は言ったのだ。その斜面の下に、何があるか、一度も見ずに。
机の、右の抽斗。
私は、取っ手に手を置いた。半年前、開けられなかった抽斗だ。
開けた。
下書きが、束で入っていた。私の声で書かれた、彼女の字。三百通か、四百通か。私が署名して、彼女が回収しなかった分。
一通ずつに、小さな紙が、留めてあった。
同じ一行が、全部に、書いてあった。
『貴方の声で書きました。』
三百枚か、四百枚の、同じ一行。
彼女は、私に見せるために書いたのではない。私は、この抽斗を、一年、開けなかった。彼女は、それを知っていた。知っていて、一通ずつ、この一行を留めた。誰にも読まれない一行を、三百回か、四百回。
帳簿の人間だから、だろう。記録は、読まれるために付けるのではない。合わせるために付ける。彼女の帳簿の中で、この一行は、合っていたのだ。私の声で書いた、という事実と、私の声ではない、という事実を、合わせるために。
私は、長く、座っていた。
窓の外が、暗くなった。ルネが、灯りを持ってきて、何も言わずに置いて、出ていった。
私は、嘘をついたことがない。
一年、彼女も、つかなかった。
彼女は、全部、紙に書いていた。初夜の紙に。四十枚に。三百枚の付箋に。
私が、読まなかった。
読まなかったことについては、人は、嘘をつかないで済む。彼女は、たぶん、劇場の幕間に、従弟からそう聞いている。私は、それを、今、自分で、知った。
抽斗を、閉めなかった。
開けたまま、灯りを消した。
明日、私は、自分の声で、シャルヴィル夫人に手紙を書く。遅れた理由ではなく、遅れた間に起きた良いことを書け、と一枚目にある。
遅れた間に起きた良いことを、私は、一つも、思いつけなかった。
それも、本当だった。




