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愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


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第26話 幕間・狐と借金(オノレ視点)

 狐は、夕方に来る。

 炉の火を落とす少し前、製鉄所の入口の石の上に座って、こちらを見ている。工員がパンをやる。追い払え、と言ったが、聞かない。工員も、狐も。


「名前を、つけましょうや、子爵」

「つけない」

「なんで」

「つければ、いなくなったときに、欄が要る」


 工長は、何のことか分からない顔をした。俺も、言ってから、気づいた。

 欄。

 あの人の言葉だ。俺の言葉ではない。一年、隣の桟敷に座り、もう一年、五日おきに手紙を読んでいると、言葉が、移る。北の男の口から、王都の帳簿の言葉が出る。工長が変な顔をするのは、当然だ。


 狐、と見出しをつけた欄を、台帳に作った。

 中は、空けてある。あの人が、そうしていい、と書いてきたからだ。空白は、ゼロとは違う。まだ数えていない、という印だ。

 俺は、それを読んで、なるほど、と思った。北では、そういう考え方をしない。数えないものは、無い。それが北だ。でも、あの人の帳面には、空白が二行ある、と、門の前で聞いた。空けたまま、持って出た、と。

 空けたまま持っている、というのが、どういうことか、俺は、狐の欄を作って、初めて分かった。


 借金は、順に返した。

 年に三百、と決まっていた。俺は、三百に、余りを乗せた。炉が二基になって、鉄の値が上がって、西の林の間伐材が売れた。乗せられる年だった。

 本家へ送るたびに、受領証を求めた。紙で。あの男は、何でも紙にする。だから、俺も、紙で受け取ることにした。あの男の紙を、あの男に、一枚ずつ返していく。そういう気持ちだった。それは、たぶん、あまり立派な気持ちではない。台帳には、書かなかった。


 受領証の添え状は、秘書が書いてくる。

 最初の頃は、二枚だった。この一年で、五行になった。

 簡潔。断定。形容詞は、一文に一つ。

 あの人の四十枚だ、と思った。あの秘書は、四十枚を、覚えたのだ。あの人が出ていったあの家で、あの人の書いた紙だけが、まだ、働いている。

 それは、悪いことではない。あの人が、そう望んだことだ。ただ、俺は、五行の添え状を、受領証と一緒に、抽斗に入れた。捨てなかった。理由は、考えなかった。


 秋に、セルの村へ行った。

 教会の裏の、川にいちばん近い石。苔が、少し、ついていた。俺は、洗った。去年と同じように。何も、置かなかった。置くのは、俺の役ではない。


「子爵様」


 司祭が、出てきた。老いた人だ。


「去年、王都の奥様が、ここで泣いておられた」

「知っている」

「乳母の墓だ、と聞きましたが。あの方は、乳母のために、あんなに泣かれるのですか」

「……あの人の皿を見た人が、この石の下にいる」

「皿」

「食える物と、食えない物を、見分けてくれた人だ。あの人には、それが、一人しかいなかった」


 司祭は、しばらく、石を見ていた。


「では、二人目が、必要ですな」


 と、司祭は言った。俺は、答えなかった。

 答えなかったが、台帳には、書いた。『司祭。二人目が必要、と言った。』


 台帳は、この一年で、二十枚を越えた。

 最初の頃は、あの人が訊かないことを、書いていた。栗売り。海運新聞。鼻歌。

 この一年は、あの人の手紙のことを、書いている。


『手紙、三枚。羊が嫌いだと書いてあった。北で言うな、と返した。返してから、笑った。工長が、何を笑っているのかと訊いた。答えなかった。』

『手紙、三枚。十八の男爵夫人が、話を三つ持ってきた、と。あの人は、それを、自分のことのように書いている。自分のことのように、と、あの人は書いていない。俺が、そう読んだ。』

『手紙、三枚。署名が、Cではなかった。名前だった。歪んでいた。俺は、その手紙を、三度読んだ。四度目は、署名だけ読んだ。』


 書いてから、思う。

 この台帳を、一年後に、見せ合う、と門の前で言った。

 見せる、ということを、書いている間、俺は考えていない。考えれば、書けない。だから、考えずに書いて、あとで、見せることになる。それでいい。演じない、と俺は最初の日に言った。台帳で演じるのは、もっと、合わない。


 夏の終わり、最後の送金をした。

 千二百残っていた分を、夏の鉄で、一度に返した。受領証が来た。五行の添え状と共に。それから、村の公証人のところへ行って、完済の証明を作らせた。


『ヴェルネ子爵オノレは、モンフォール侯爵家に対する債務、金貨四千枚を、完済した。残債、なし。』


 紙だ。

 紙は、崩れた炉を建て直さない。十二年前、俺はそう思った。今も、そう思う。

 だが、紙は、借りのない男を、一人、作ることはできる。

 俺は、その紙を、崩れた炉の請負契約書の隣に、入れた。十二年間、抽斗にあった契約書の隣に。二枚並べると、片方が、少し、軽くなった気がした。気がしただけだ。紙の重さは、変わらない。


 それから、応募書類を書いた。


 応募は、書面で。あの人は、そう言った。

 書面、というのは、手紙ではないのだろう、と俺は考えた。手紙は、一年、書いた。応募は、別の紙だ。北の男は、王都の作法を知らないが、役所の紙は、知っている。製鉄所の許可を取るのに、十枚は書いた。


 紙の上に、線を引いた。欄を作った。


 応募先。クレマンス書簡室。

 職位。夫。

 氏名。オノレ・ド・ヴェルネ。

 年齢。三十三。

 資格。北で、木と鉄をやっている。踊れない。演じない。皿を見る。

 債務。なし(完済証明、添付)。

 推薦人。三名。


 推薦人の欄は、少し、考えた。

 一人目。マルト。あの家の女中頭。手紙を書いた。「推薦人になってもらえるか」と。返事は、一行だった。『推薦いたします。奥様の皿を見る方として。』

 二人目。ブリュイエール伯爵夫人。手紙を書いた。返事は、時計から来た。北の宿の帳場の時計から、女将を通して。『推薦するわ。演技が下手な男を、三十年ぶりに。』

 三人目。狐。返事は、来なかった。今日も、石の上に座っていた。それで、いいことにした。


 添付。台帳の写し。

 二十何枚を、全部、写した。逸脱の欄だけ、別の紙に、まとめて書いた。


『逸脱、一件。上着。

 二件。牡蠣の皿。

 三件。手袋(返却拒否)。

 四件。印材。

 ――』


 そこまで書いて、五件目を、書くかどうか、迷った。

 墓地で、破りたい、と言ったこと。あれは、破っていない。逸脱ではない、と俺は言った。あの人は「ただし――」と書いて、先を空けたはずだ。

 俺は、五件目を、空けた。

 あの人の空白と、同じ場所に、俺の空白を置く。見せ合ったときに、二つの空白が、同じ場所にあればいい。無ければ、それも、記録だ。


 最後に、署名した。

 歪んだ。俺の字は、いつも歪んでいる。木と鉄を持つ手の字だ。あの人は、それに、この一年で気づいた、と書いてきた。一年、見ていたのに、と。

 歪んでいていい、と、あの人は書いていた。真っすぐな署名は、他人の名で書いたときだけだ、と。

 俺は、他人の名で署名したことがない。だから、俺の署名は、一度も、真っすぐだったことがない。それを、あの人に、まだ言っていない。言えば、あの人は、たぶん、笑う。抑えた、少し掠れた、誰にもついていっていない笑い方で。

 それを聞くために、行く。


 封をした。印は、ヴェルネの、ハンノキの葉の印。

 宛名。『クレマンス書簡室 クレマンス様』。


 手紙は、五日で行く。

 俺は、六日で行く。馬車ではない。馬だ。王都の馬車では、眠れない。

 一日、遅れる。それでいい。応募は、書面で、と言われた。書面が、先に着く。俺は、そのあとだ。


 夕方、狐が、石の上に座っていた。


「しばらく、留守にする」


 と、俺は言った。狐は、こちらを見ていた。


「帰ってくるとき、たぶん、一人ではない。……たぶん、だ。応募は、通るとは限らん」


 狐は、何も言わなかった。当然だ。

 俺は、台帳の狐の欄を、開いた。空けてあった欄に、初めて、一行、書いた。


『留守を、頼んだ。』


 空白が、一つ、減った。

 残りの空白は、五件目、一つだけになった。それは、王都で、埋まるか、埋まらないか、決まる。

 馬に、鞍を置いた。


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