第25話 一年の手紙
手紙は、五日で北へ行き、五日で戻ってきた。
一年、それが続いた。
彼の手紙は、いつも、報告だった。
『炉、二基目に火を入れた。鉄の値、王都で去年の一割増し。
借金、今月、三百と、余りで二百。残り、千八百。
狐が、製鉄所に来る。夕方。工員が、パンをやっている。追い払え、と言ったが、聞かない。』
狐、と私は書き写した。帳面の、「北」の頁に。
狐の話は、それから、毎回、一行入った。
『狐、今日も来た。パンより、鉄を溶かす音が好きらしい。炉の前に座っている。』
『狐に、名前をつけろ、と工員が言う。つけない。つければ、いなくなったときに、欄が要る。』
欄が要る。
私の言葉だった。私は、それを、手紙に書いたことがない。彼は、私の帳面を見たことがない。それでも、彼は、私の言葉で、狐のことを書いた。一年、隣の桟敷に座り、もう一年、五日おきに手紙を読んでいると、言葉は、移る。
私は、返事に書いた。
『狐に、名前をつけないのは、正しいです。
でも、欄は、作ってもいいのです。空けておいても、いい。空白は、ゼロとは違います。まだ数えていない、という印です。私は、この一年で、それを覚えました。』
五日。五日。
『欄を、作った。狐、と見出しをつけた。中は、空けてある。
あなたの手紙が、去年より、長い。』
長くなっていた。
三行から始まった手紙は、一枚になり、二枚になり、この頃は、三枚になっていた。
書簡室のこと。三百通の中で、ブリュイエール夫人が二年前に返事を出し忘れていた、亡くなった友人からの手紙を見つけたこと。夫人は、その手紙を読んで、初めて、私の前で扇を膝に置いたまま、何も言わなかったこと。
七十歳の男爵夫人が、四十年ぶりに自分の名を書いたこと。
十八歳の男爵夫人が、シャルヴィル夫人の食卓で、聞く側に座って、帰りに「話を、三つ持ちました」と、店に報告に来たこと。
好きなもの。栗。林檎の酒。大きな窓。歪んだ署名。
そして、ある手紙の、最後に、書いた。
『嫌いなもの。羊。
北では、言えないことだと、思っていました。でも、貴方には、言っておきます。』
五日。五日。
『羊は、北で、言うな。
俺には、言っていい。
俺も、一つ言う。俺は、王都の馬車が嫌いだ。眠れない。あなたの歌がないと、なお眠れない。』
私は、その手紙を、三度、読んだ。
三度目に、最後の行を、指で触った。インクは、乾いていた。五日、経っている。
彼の質問は、いつも、一つだった。
『行きたい場所は、見つかったか。』
私は、書いた。
『まだ、です。
でも、行きたくない場所が、減りました。実家。モンフォール邸。二つとも、もう、行きたくない場所ではありません。行かない場所、です。行きたくない、と、行かない、は、違います。この一年で、それも覚えました。
残っているのは、行きたい場所が、まだない、ということだけです。それは、減らないので、探しています。』
『探しているなら、いい。
ヴィエの上流に、ハンノキの若木が、三百本ある。去年、植えた。今年、根が、ついた。十年後に、斜面になる。
見に来る人は、いない。地味な木だから。
地味な木を見に来る人がいたら、俺は、その人に、川の名を三つ、教える。』
私は、この手紙を、帳面に挟まなかった。
抽斗の、初夜の紙の隣に、入れた。理由は、考えなかった。
春に、ブリュイエール夫人の時計が、一つ、鳴った。
モンフォール侯爵が、カステラン伯爵家の令嬢ブランシュと、結婚した。式は、質素だった。侯爵は、寛大に前妻を解放した男として、社交界の一部から、好意を持たれている。一部から、だ。
「聞きたい?」
夫人は、店の椅子で、そう訊いた。
「いいえ」
「そう。……では、時計に言わせておくわ」
私は、三百通の残りの、最後の十通を書いていた。夫人の声で。夫人は、私に自分の声で書かれることを、許した唯一の人だ。「私の声は、あなたが三十年聞いていたから、あなたの物でもあるのよ」と、夫人は言った。
聞かなくても、聞こえてくることは、あった。
モンフォール家の屋敷が、明るくなった、と。晩餐が、華やかになった、と。評議会の席は、次期に持ち越し、と。
私は、それを、帳面に書かなかった。欄がない、のではなかった。欄が、要らなかった。
あの家のことは、四十枚の引継書に、全部書いた。書いたものは、私の手を離れている。離れたものは、私の帳面に、戻ってこない。
ルネからは、四半期ごとに、年金と共に、手紙が来た。
最初の手紙は、二枚だった。二度目は、一枚。三度目は、半枚。四度目は、五行だった。
簡潔。断定。形容詞は、一文に一つ。相手の功績を一つ、自分の関心を一つ。
良い秘書になった、と私は思った。五行の手紙を、私は、抽斗に入れた。あの人の四十枚は、無駄になっていない。それだけ、確かめられれば、よかった。
夏の初めに、北から、いつもと違う手紙が来た。
報告は、いつも通りだった。炉。鉄。斜面。狐(今日も来た。欄は、まだ空いている)。
最後の行が、二行だった。
いつも、一行だった。一年前から。台帳、了解。こちらも、継続している。逸脱、なし。ハンノキの若木を三百本。地味な木を見に来る人がいたら。
全部、一行だった。
今日は、二行あった。
『借金、残り、千二百。夏の終わりまでに、終わる。
あなたの手紙が、長くなった。読むのに、時間がかかる。良い時間だ。』
私は、その二行を、しばらく、見ていた。
最初の一行は、報告だ。数字。借金の残り。それは、彼が、あの男に一銭の借りもない男になる日が、夏の終わりだ、ということだ。
二行目は、報告ではなかった。
良い時間だ。
彼は、そう書いた。私の手紙を読む時間について。
彼が、自分の時間について書いたのは、初めてだった。一年あまり、彼は、炉と、鉄と、川と、狐について書いた。自分については、書かなかった。訊かれないことは、書かない人だ。私は、訊かなかった。訊く欄が、なかった。
私は、ペンを取った。
返事を書いた。書簡室のこと。夫人の三百通が、今日、終わったこと。十八歳の男爵夫人が、夏のあいだ、夫の領地に帰るので、「秋に、また来ます。話を、十持って」と言ったこと。
三枚になった。
最後に、署名した。
Cと書こうとして、手が、止まった。
この一年、Cだった。侯爵夫人だった頃から、Cだった。名前を書く手が止まって、頭文字だけになった、あの夜から。
私は、書いた。
『クレマンス』
全部。
歪んだ。Cのあとの文字が、少し、右に流れた。書き慣れていない字だ。契約書に書いたことはある。手紙に書いたのは、初めてだった。
書き直さなかった。真っすぐな署名は、他人の名で書いたときだけだ。私は、十八歳の男爵夫人に、そう言った。自分にも、言うことにした。
封をして、Cを押した。
署名に名があって、印に頭文字がある。一年前は、その逆だった。宛名にだけ名があって、署名には頭文字しかなかった。
一年で、逆になった。
私は、それを、帳面の「私」の頁に、書いた。逸脱の欄ではなかった。逸脱の欄は、この一年、一度も使っていない。使う相手が、五日先にいるからだ。
夏の終わりまで、あと、二か月。
私は、抽斗を開けて、木片だったものを、見た。今は、印だ。Cと彫られた、歪んだ線の。
一年後に、両方、見せ合う。彼は、門の外で、そう言った。
私の帳面は、二冊になっていた。侯爵夫人の一年と、書簡室の一年。
彼の台帳が、何枚になっているか、私は知らなかった。知らないものは、五日先にある。
五日は、一年で、短くなっていた。同じ五日なのに。




