第24話 名前で署名する人たち
ブリュイエール夫人の時計は、正確だった。
三週目に、二人目の客が来た。四週目に、四人目。二か月で、月契約が六つになった。
夫人が、時計に何を言わせたのか、私は知っている。「第三区に、値段の高い書簡室がある」。それだけだ。安い、ではなく、高い。高い店には、高い理由があると、王都の人は思う。夫人は、私に値をつけて、その値を、街に覚えさせた。
客は、三種類いた。
一つ目は、書けない人。
モラン男爵夫人の姑。七十を過ぎて、目が弱った。手紙は、四十年、亡くなった夫の名で書いてきた。夫が死んで、自分の名で書く必要ができたとき、目が、字を追えなくなっていた。
「口で言います。あなたが、書いて」
私は、書いた。彼女の言葉を、彼女の言い回しのままに。四十年、夫の声で書いてきた人の、自分の声は、少し、錆びていた。錆びた声を、私は、磨かなかった。磨けば、私の声になる。
「署名は、ご自分で」
「……見えないのよ」
「見えなくても、書けます。四十年、書いてきた字です。手が、覚えています」
彼女は、ペンを取った。
ゆっくり、書いた。線が、震えた。歪んだ。
「結婚式以来だわ。自分の名を、こんなふうに書くのは」
彼女は、そう言った。私は、何も言わなかった。私の署名も、歪んでいる。歪んだ署名を並べて見ることが、この部屋の仕事だった。
二つ目は、形を知らない人。
絹商人の妻。夫が、去年、金で男爵位を買った。社交界の手紙の形を、誰も教えてくれない。招待を受けるとき、断るとき、礼を言うとき、悔やみを言うとき。
「型を、覚えてください。三日で覚えられます」
「代わりに書いてくださるのでは」
「私が書けば、貴女は、来年も私に来ます。貴女が書けば、来年は、来なくて済みます」
ジョゼットが、帳簿の向こうで、小さく咳をした。良い商売ではない、と言いたいのだ。私は、それを知っていた。
「良い商売では、ありません」
と、私は、彼女に言った。
「でも、合います」
三つ目は、怖がっている人。
ド・リール男爵夫人。十八歳。去年の秋に結婚して、この冬が、初めての社交期。夫は地方の領地にいて、王都には、彼女だけ。
「シャルヴィル内務卿夫人から、招待が来たのです」
彼女は、招待状を、両手で持っていた。金の縁。獅子と鍵。三年届かなかった家に、私は一通で届かせた。この子には、初めての冬に、届いた。夫の家が、内務卿と古い縁があるのだと、彼女は言った。
「行きたくないのです」
「なぜ」
「怖いから。何を話せばいいか、分からない。誰が誰か、分からない。……断りたい。でも、断り方が、分からない」
私は、彼女を見た。
十八歳。震える手。七年前の私より、たぶん、この子のほうが、正直だ。私は、怖い、と言ったことがない。怖いものは、皿の下に隠した。
「三つ、覚えてください」
私は、便箋を、一枚、彼女の前に置いた。
「一つ。欲しいものを、隠さない。行きたくないなら、行きたくない、と書く。ただし、理由は、本当のことを一つだけ。怖いから、では、相手に何もあげられない。『初めての社交期で、まだ、夫人のお食卓にふさわしい話を、一つも持っていません』。これは、本当で、相手にあげられる」
「あげられる……?」
「シャルヴィル夫人は、正直な子が、好きです。花より、物。物より、手間。貴女が、正直に書くことが、手間です」
「二つ目は」
「三日以内」
「三つ目は」
私は、少し考えて、言った。
「震えていないことを、確かめてから、署名しなくていい」
彼女は、私を見た。
「震えたまま、書いていいのです」
私は、二十四年、震えていないことを確かめてから、喋ってきた。茶を飲む前も、署名する前も。それが、正しい手順だと思っていた。
この子に、それを教えるつもりは、なかった。教えれば、この子は、震えていないことを確かめる人になる。二十四年かけて。私は、それを、合わない、と思った。
彼女は、下書きを書いた。
悪い下書きだった。形容詞が多く、謝りすぎで、欲しいものが隠れていた。
私は、赤で、直した。直したあと、彼女の言葉が、四割、残っていた。四割で、いい。私の手紙なら、十割、私だ。それは、彼女の手紙ではない。
彼女は、清書して、署名した。
手が、震えていた。字が、歪んだ。
「……歪みました」
「はい」
「書き直します」
「書き直さないでください」
私は、その手紙を、封筒に入れた。
「真っすぐな署名は、他人の名で書いたときだけです。私は、千回、真っすぐに署名しました。全部、他人の名でした」
彼女は、しばらく、私を見ていた。
それから、封をした。自分の印で。小さな、鹿の印だった。
三日後、彼女が、走ってきた。
息を切らして、店の扉を開けて。
「返事が、来ました!」
シャルヴィル夫人からの、返事。私は、読んだ。
『正直な手紙を、久しぶりに読みました。話を一つも持っていないなら、聞く側に座ればいい。私の食卓には、話す人ばかりで、聞く人が足りません。来なさい。』
十八歳の男爵夫人は、その場で、泣いた。
私は、慰めなかった。ジョゼットが、林檎の酒を、一杯出した。それで、足りた。
夕方、私は、帳簿を付けた。
収入。月契約、六。単発、十一。
支出。便箋。インク。林檎。栗。
それから、帳面のほうを開いた。「私」の頁。
好きなもの。栗。林檎の酒。大きな窓。歪んだ署名。
嫌いなもの。羊。
歪んだ署名、と書いた自分の字を、私は、しばらく見た。
この部屋には、毎日、歪んだ署名が、来る。七十歳の、四十年ぶりの名。絹商人の妻の、まだ慣れない爵位。十八歳の、震えた鹿。
全部、本人の字だった。
私は、十年、真っすぐな字を、他人の名で書いてきた。この部屋で、初めて、歪んだ字が、正しい字に見えた。
夜、北からの手紙を、読み返した。
大きな字。工長の字ほどではないが、王都の男の字ではない。真っすぐでは、ない。
あの人の署名も、歪んでいる。
私は、それに、この部屋へ来てから、初めて気づいた。一年、見ていたのに。歪んでいるものを、歪んでいる、と見られるようになったのは、この部屋に来てからだ。
私は、ペンを取った。
今夜の返事に、書くことが、一つ、増えた。




