第23話 書簡室、開業
第三区の家は、二階建てで、通りに面した部屋が一つ、店になっていた。
前の持ち主は、公証人だったという。壁に、書類棚の跡がある。窓が大きい。字を書くには、良い部屋だ。
二階に、私の寝室と、小さな居間。屋根裏に、ジョゼットの部屋。彼女は「寒くありません」と言った。北の外套を、私の費で作ったからだ。
最初の夜、私は台所に立った。
台所に立つのは、初めてではない。実家の厨房には、毎朝行った。献立を確かめるために。でも、自分が何を食べるかを決めるために台所に立ったのは、初めてだった。
「何を、召し上がりますか」
ジョゼットが、訊いた。
私は、台所を見た。パン。チーズ。林檎。パン屋で買った、それだけ。
「……分かりません」
「では、全部、少しずつ」
「そうしましょう」
パンと、チーズと、林檎を食べた。
美味しかった。美味しい、と思った自分に、少し、驚いた。この二十四年、食事は、美味しいか美味しくないかではなく、食べられるか食べられないかで、分けていた。牡蠣か、パンか。それだけだった。
それから、毎日、一つずつ、試した。
栗は、好きだった。当然だ。一年、栗売りの前で足を止めていた。
林檎の酒は、好きだった。喉が熱くなるのが、好きだった。
羊の肉は、嫌いだった。北の男に、それは言えない、と思った。言わないことを、一つ持つのも、悪くなかった。
好きなものが三つ、嫌いなものが一つ、二週間で分かった。私は、それを帳面に書いた。逸脱の欄ではない。新しい頁に、「私」と見出しを付けて。
金のことを、考えた。
金貨三千枚は、元手だ。使えば、消える。年金は、年に二百。この家で、二人が暮らして、少し余る。それだけだ。
働かなければ、と思った。働いていないと、時間が長い。それは初夜にロドルフに言ったことで、嘘ではなかった。
何をするか。
私が知っていることは、一つだけだった。手紙。誰が誰に何を頼み、何を断られ、どこで貸しを作り、どこで借りを返していないか。それを、紙の上で動かすこと。二十四年、それだけをやってきた。他人の名で。
私は、抽斗から、木片を出した。
小刀は、台所のものを使った。
ハンノキは、柔らかい。彫りやすい木だ、と彼が言っていたかどうか、覚えていない。たぶん、言っていない。訊いていないから。
平らな端に、一文字。
何を彫るか、一年、決めていなかった。彫るときになって、迷わなかった。
C。
それだけにした。カステランのCではない。クレマンスのCだ。北への手紙の署名に、それだけを書いてきた。名前を書く手が止まって、頭文字だけになった、あの一文字。
あのときは、名前を持っているかどうか分からなくて、Cにした。
今日は、名前を持っていると分かっていて、Cにした。同じ文字が、違う理由で、そこにある。
彫り終えて、蝋を垂らして、押した。
紙の上に、C。
小さくて、少し、線が歪んでいた。私の彫った線だ。他人の印は、千回押した。全部、真っすぐだった。自分の印は、一度目で、歪んでいた。
悪くない、と思った。
看板は、私が書いた。
板に、白い塗料で。ジョゼットが、塗った。
『クレマンス書簡室』
書簡室。名前は、一晩、考えた。代筆所、では、他人の名で書く仕事になる。私は、それを、もうしないと決めていた。書簡室。手紙に関することを、する部屋。何をするかは、まだ、決めていない。決めていないものに、名前を付けた。それも、初めてだった。
通りの人が、看板を見た。
第三区は、公証人と医者と弁護士の街だ。離縁した元侯爵夫人が店を開いた、というのは、噂になった。でも、この街の噂は、社交界の噂より、静かだった。皆、自分の看板を持っている人たちだからだ。
一週目、誰も来なかった。
私は、窓の大きな部屋で、机を磨き、ペンを揃え、便箋を並べた。帳簿を作った。収入、ゼロ。支出、塗料と、板と、便箋。
ゼロを書くのは、悪くなかった。ゼロは、数字だ。空白ではない。
二週目の火曜、淡い紫の馬車が、店の前に止まった。
「時計が、看板のことを言うのよ」
ブリュイエール伯爵夫人は、店に入って、書類棚の跡を見て、大きな窓を見て、それから、私を見た。後ろから、従僕が二人、トランクを一つ運んできた。
「三百通」
と、夫人は言った。
「返事をしていない手紙。この二年分。私は、聞くのは好きだけど、書くのは嫌いなの。三十年、そうだった。だから、二年で、三百」
トランクが、開いた。
本当に、三百通あった。私は、一目で、だいたいの数を数えた。数えるのは、得意だ。
「書記を、お求めですか」
「違うわ」
夫人は、私の机の前の椅子に、座った。座って、と言わなくても、座る人だ。
「書記が欲しいのなら、この街に百人いる。私が欲しいのは、モンフォールを、シャルヴィルの食卓に座らせた女。三年届かなかった招待を、鉄材の寝台で届かせた女。……あの手紙、読んだのよ。シャルヴィル夫人が、私に見せた。花より物、物より手間。あれを、私の手紙で、やってほしい」
私は、三百通を見た。
それから、夫人を見た。
「料金を、決めていません」
「決めなさい」
「……一通、銀貨一枚。三百通で、金貨三枚」
夫人は、扇で、机を、一度、叩いた。
「安すぎる」
「え」
「安い女は、安い噂になるの。私の手紙を、銀貨一枚で書く女がいる、と時計が言い始めたら、あなたはこの街で、銀貨一枚の女になる。……一通、銀貨五枚。三百で、金貨十五。それから、月ごとの契約で、私の社交暦を、全部あなたが見る。月に、金貨五」
私は、計算した。
年金の、半分近い額が、この一人から、毎月入る。
「……なぜ、そこまで」
「あなたが、値をつけないからよ」
夫人は、扇を閉じた。
「二十四年、誰もあなたに値をつけなかった。あなた自身も、つけなかった。私は、値をつける人よ。噂も、人も。だから、最初の値は、私がつける。次からは、自分でつけなさい。この値より、下げないこと」
私は、契約書を書いた。
便箋に。三百通。単価。月契約。期間、一年。更新は、双方の合意で。
署名欄で、手が、止まった。
クレマンス・ド・カステラン。婚姻院の記録では、私はその名に戻っている。
クレマンス・ド・モンフォール。一年、その名だった。
どちらも、私の名ではなかった。カステランは父の名で、モンフォールは夫の名だ。私は、その二つの家の間を、契約で移動した。名だけが、移動しなかった。
私は、書いた。
『クレマンス』
それだけ。
その横に、蝋を垂らして、Cを押した。歪んだ、私の線。
夫人は、契約書を取って、署名を見て、印を見た。
「家の名が、ないわね」
「どちらも、私の物ではありませんので」
「……いいわ。それが、あなたの署名ね」
夫人は、自分の署名をした。ヒースの花の印を、押した。
二つの印が、一枚の紙に並んだ。片方は三十年使われた印で、片方は、今日、二度目に押された印だった。
夫人が帰ったあと、私は、契約書を、机の上に置いたまま、しばらく、見ていた。
私の名で書いた、最初の手紙は、契約書だった。
恋文でも、礼状でも、詫び状でもなく。単価と、期間と、更新条件。
帳簿の人間らしい、と思った。
帳簿を開いて、収入の欄に、初めて、ゼロ以外の数字を書いた。
金貨十五。月に五。
それから、支出の欄に、今日の分を書いた。林檎、二つ。栗、一袋。
夜、ジョゼットが、屋根裏から下りてきて、言った。
「今日の夕食は、何にいたしますか」
「栗を、入れてください。それから、林檎の酒を」
「羊は」
「羊は、嫌いです」
「はい」
彼女は、笑った。私も、笑った。
二週間で、好きなものが三つ、嫌いなものが一つ、そして、仕事が一つ。
一年で、どこまで数えられるか、私は、まだ知らなかった。ただ、数えるものが、あった。それが、この家の、最初の二週間だった。




