↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/34

第23話 書簡室、開業

 第三区の家は、二階建てで、通りに面した部屋が一つ、店になっていた。

 前の持ち主は、公証人だったという。壁に、書類棚の跡がある。窓が大きい。字を書くには、良い部屋だ。

 二階に、私の寝室と、小さな居間。屋根裏に、ジョゼットの部屋。彼女は「寒くありません」と言った。北の外套を、私の費で作ったからだ。


 最初の夜、私は台所に立った。

 台所に立つのは、初めてではない。実家の厨房には、毎朝行った。献立を確かめるために。でも、自分が何を食べるかを決めるために台所に立ったのは、初めてだった。


「何を、召し上がりますか」


 ジョゼットが、訊いた。

 私は、台所を見た。パン。チーズ。林檎。パン屋で買った、それだけ。


「……分かりません」

「では、全部、少しずつ」

「そうしましょう」


 パンと、チーズと、林檎を食べた。

 美味しかった。美味しい、と思った自分に、少し、驚いた。この二十四年、食事は、美味しいか美味しくないかではなく、食べられるか食べられないかで、分けていた。牡蠣か、パンか。それだけだった。


 それから、毎日、一つずつ、試した。

 栗は、好きだった。当然だ。一年、栗売りの前で足を止めていた。

 林檎の酒は、好きだった。喉が熱くなるのが、好きだった。

 羊の肉は、嫌いだった。北の男に、それは言えない、と思った。言わないことを、一つ持つのも、悪くなかった。

 好きなものが三つ、嫌いなものが一つ、二週間で分かった。私は、それを帳面に書いた。逸脱の欄ではない。新しい頁に、「私」と見出しを付けて。


 金のことを、考えた。

 金貨三千枚は、元手だ。使えば、消える。年金は、年に二百。この家で、二人が暮らして、少し余る。それだけだ。

 働かなければ、と思った。働いていないと、時間が長い。それは初夜にロドルフに言ったことで、嘘ではなかった。


 何をするか。

 私が知っていることは、一つだけだった。手紙。誰が誰に何を頼み、何を断られ、どこで貸しを作り、どこで借りを返していないか。それを、紙の上で動かすこと。二十四年、それだけをやってきた。他人の名で。


 私は、抽斗から、木片を出した。


 小刀は、台所のものを使った。

 ハンノキは、柔らかい。彫りやすい木だ、と彼が言っていたかどうか、覚えていない。たぶん、言っていない。訊いていないから。

 平らな端に、一文字。

 何を彫るか、一年、決めていなかった。彫るときになって、迷わなかった。


 C。


 それだけにした。カステランのCではない。クレマンスのCだ。北への手紙の署名に、それだけを書いてきた。名前を書く手が止まって、頭文字だけになった、あの一文字。

 あのときは、名前を持っているかどうか分からなくて、Cにした。

 今日は、名前を持っていると分かっていて、Cにした。同じ文字が、違う理由で、そこにある。


 彫り終えて、蝋を垂らして、押した。

 紙の上に、C。

 小さくて、少し、線が歪んでいた。私の彫った線だ。他人の印は、千回押した。全部、真っすぐだった。自分の印は、一度目で、歪んでいた。

 悪くない、と思った。


 看板は、私が書いた。

 板に、白い塗料で。ジョゼットが、塗った。


『クレマンス書簡室』


 書簡室。名前は、一晩、考えた。代筆所、では、他人の名で書く仕事になる。私は、それを、もうしないと決めていた。書簡室。手紙に関することを、する部屋。何をするかは、まだ、決めていない。決めていないものに、名前を付けた。それも、初めてだった。


 通りの人が、看板を見た。

 第三区は、公証人と医者と弁護士の街だ。離縁した元侯爵夫人が店を開いた、というのは、噂になった。でも、この街の噂は、社交界の噂より、静かだった。皆、自分の看板を持っている人たちだからだ。


 一週目、誰も来なかった。

 私は、窓の大きな部屋で、机を磨き、ペンを揃え、便箋を並べた。帳簿を作った。収入、ゼロ。支出、塗料と、板と、便箋。

 ゼロを書くのは、悪くなかった。ゼロは、数字だ。空白ではない。


 二週目の火曜、淡い紫の馬車が、店の前に止まった。


「時計が、看板のことを言うのよ」


 ブリュイエール伯爵夫人は、店に入って、書類棚の跡を見て、大きな窓を見て、それから、私を見た。後ろから、従僕が二人、トランクを一つ運んできた。


「三百通」


 と、夫人は言った。


「返事をしていない手紙。この二年分。私は、聞くのは好きだけど、書くのは嫌いなの。三十年、そうだった。だから、二年で、三百」


 トランクが、開いた。

 本当に、三百通あった。私は、一目で、だいたいの数を数えた。数えるのは、得意だ。


「書記を、お求めですか」

「違うわ」


 夫人は、私の机の前の椅子に、座った。座って、と言わなくても、座る人だ。


「書記が欲しいのなら、この街に百人いる。私が欲しいのは、モンフォールを、シャルヴィルの食卓に座らせた女。三年届かなかった招待を、鉄材の寝台で届かせた女。……あの手紙、読んだのよ。シャルヴィル夫人が、私に見せた。花より物、物より手間。あれを、私の手紙で、やってほしい」


 私は、三百通を見た。

 それから、夫人を見た。


「料金を、決めていません」

「決めなさい」

「……一通、銀貨一枚。三百通で、金貨三枚」


 夫人は、扇で、机を、一度、叩いた。


「安すぎる」

「え」

「安い女は、安い噂になるの。私の手紙を、銀貨一枚で書く女がいる、と時計が言い始めたら、あなたはこの街で、銀貨一枚の女になる。……一通、銀貨五枚。三百で、金貨十五。それから、月ごとの契約で、私の社交暦を、全部あなたが見る。月に、金貨五」


 私は、計算した。

 年金の、半分近い額が、この一人から、毎月入る。


「……なぜ、そこまで」

「あなたが、値をつけないからよ」


 夫人は、扇を閉じた。


「二十四年、誰もあなたに値をつけなかった。あなた自身も、つけなかった。私は、値をつける人よ。噂も、人も。だから、最初の値は、私がつける。次からは、自分でつけなさい。この値より、下げないこと」


 私は、契約書を書いた。

 便箋に。三百通。単価。月契約。期間、一年。更新は、双方の合意で。


 署名欄で、手が、止まった。

 クレマンス・ド・カステラン。婚姻院の記録では、私はその名に戻っている。

 クレマンス・ド・モンフォール。一年、その名だった。

 どちらも、私の名ではなかった。カステランは父の名で、モンフォールは夫の名だ。私は、その二つの家の間を、契約で移動した。名だけが、移動しなかった。


 私は、書いた。


『クレマンス』


 それだけ。

 その横に、蝋を垂らして、Cを押した。歪んだ、私の線。


 夫人は、契約書を取って、署名を見て、印を見た。


「家の名が、ないわね」

「どちらも、私の物ではありませんので」

「……いいわ。それが、あなたの署名ね」


 夫人は、自分の署名をした。ヒースの花の印を、押した。

 二つの印が、一枚の紙に並んだ。片方は三十年使われた印で、片方は、今日、二度目に押された印だった。


 夫人が帰ったあと、私は、契約書を、机の上に置いたまま、しばらく、見ていた。


 私の名で書いた、最初の手紙は、契約書だった。

 恋文でも、礼状でも、詫び状でもなく。単価と、期間と、更新条件。

 帳簿の人間らしい、と思った。


 帳簿を開いて、収入の欄に、初めて、ゼロ以外の数字を書いた。

 金貨十五。月に五。

 それから、支出の欄に、今日の分を書いた。林檎、二つ。栗、一袋。


 夜、ジョゼットが、屋根裏から下りてきて、言った。


「今日の夕食は、何にいたしますか」

「栗を、入れてください。それから、林檎の酒を」

「羊は」

「羊は、嫌いです」

「はい」


 彼女は、笑った。私も、笑った。

 二週間で、好きなものが三つ、嫌いなものが一つ、そして、仕事が一つ。

 一年で、どこまで数えられるか、私は、まだ知らなかった。ただ、数えるものが、あった。それが、この家の、最初の二週間だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。