第22話 役を辞します
朝、玄関ホールに、使用人が三十二人並んでいた。
マルトの采配だ。仮の奥様の退去に、こういう見送りは、この家の帳簿のどこにも書かれていない。私は、それを、見なかったことにしなかった。一人ずつ、顔を見た。リゼ。子が熱を出した下働き。庭師。厨房の。ルネは、列の端で、四十枚を胸に抱えていた。まだ、抱えている。
ロドルフは、階段の上にいた。
下りてこなかった。下りない、という判断を、彼はしたのだと思う。それは、正しかった。私も、上がらなかった。
「第三区の家は、整えてある」
と、彼は、階段の上から言った。
「ありがとうございます」
「年金は、四半期ごとに、ルネから」
「はい」
少し、間があった。
三十二人が、息を止めていた。
「……君は、有能だった」
と、彼は言った。
過去形だった。私は、それを、正確に受け取った。この人の言葉は、いつも正確だ。
「はい」
「私は、君に、嘘をつかなかった」
「はい。それは、本当です」
私は、それ以上、言わなかった。
前は、続きがあった。嘘をつかないことと、人を見ることは、別の仕事です。声に出さずに、扉に向けて言った続き。今日は、その続きを、持っていなかった。彼に渡す物は、四十枚の引継書で、全部だった。
「何か、私に、言うことはないか」
彼は、訊いた。
初夜に、彼は「なぜ怒らない」と訊いた。私は「怒ってもいい契約でしたか」と答えた。今日の問いは、あれと、同じ形をしていた。答えを持っていない人の、問い。
「引継書に、全部、書きました」
と、私は言った。
「花瓶は、マルトに。彼女は、正しい枝を知っています」
彼は、頷いた。
それで、終わった。一年が。
私は、頭を下げた。侯爵夫人が、侯爵に下げる角度で。それから、身体を起こして、三十二人のほうを見た。
「ありがとう」
と、私は言った。
マルトが、頭を下げた。三十二人が、下げた。ジョゼットは、私の後ろに立っていた。彼女は、下げなかった。もう、この家の人ではないからだ。
門の外に、彼がいた。
馬を、門の柱に繋いで、立っていた。門の内側には、入っていない。入れば、噂を本当にする。彼は、それを、五日前の手紙に書いていた。
朝の通りに、人が三人いた。隣家の奥方。向かいの窓が、一つ開いている。北へ発った朝と、同じ景色だった。あの朝、ロドルフは「妻を頼む」と、門の外まで届く声で言った。
今朝、門の外に立っている人は、声を大きくしなかった。
「役を、辞する」
と、彼は言った。いつもの大きさで。
「受理します」
「別の役に、応募したい」
私は、彼を見た。
通りの三人が、聞いているかどうか、考えなかった。考える欄が、なかった。
「応募は、書面で」
「いつ」
「一年後に」
彼は、少し、黙った。膝を、叩かなかった。手は、脇にあった。
「なぜ、一年」
私は、答えを、用意していた。
三十日、引継書を書きながら、この答えを、書いていた。紙にではなく。頭の中の、私の帳面に。
「私は、二十三年、誰かの娘で、姉で、妻でした。一年、当て馬の相手役でした。全部、誰かが決めた役です。私は、その役を、全部、上手くやりました。上手くやれることが、私の、たぶん唯一の物でした」
彼は、聞いていた。頷きながら。私の目を見て。
「誰の妻でも、妹でも、相手役でもない私が、誰なのか、私は、知りません。行きたい場所を訊かれて、答えられませんでした。何を食べたいかも、たぶん、答えられません。……その私を、知りたいのです。一年で、知れるかどうか、分かりません。でも、一年、やってみます」
私は、一つ、息を吸った。
「そして、貴方に、その人を、望んでほしい。今の私を望まれても、私は、それが私なのか、分からないのです。分からないものを、貴方に渡すのは、合いません」
彼は、しばらく、何も言わなかった。
通りの三人も、何も言わなかった。向かいの窓が、閉まった。
「一年」
と、彼は言った。
「はい」
「俺は、借金を返し終える。それまでに」
「……本家から、自由になって、来てください」
「そのつもりだ。あの男に、一銭も借りがない男として、応募する」
私は、頷いた。
「台帳は」
「継続します」
「こちらも」
「二年経ったら見せる、と、貴方は言いました」
「二年、経っていない。一年だ」
「では――」
「一年後に。両方、見せ合う」
彼は、そう言った。
私は「はい」と言った。
馬車が、門の前に来た。
ジョゼットが、先に乗った。トランクが二つ、積まれた。
彼が、手を、差し出した。
乗り降りの、例外規定。一年間、唯一、許された接触。私は、革の手袋の手で、その手を取った。
彼の手は、大きくて、乾いていて、硬かった。木と鉄を持つ手だ。
私は、馬車の踏み台に足を掛けた。
彼の手が、半秒、離れなかった。
「例外規定です」
と、私は言った。
「知っている」
と、彼は言った。
一年前の雨の夜と、同じ言葉だった。あのとき、私は「筋書きにありません」と言い、彼は「知っている」と言った。今日、私は「例外規定です」と言い、彼は「知っている」と言った。
同じ言葉が、一年で、こんなに違う重さになる。私はそれを、帳面に書く欄を、持っていなかった。持っていないまま、手を、離した。
馬車が、動いた。
私は、振り返らなかった。窓の外に、大きな影が、門の柱の前に立ったまま、動かないのが、見えた。振り返らなくても、見えた。
馬車の中で、ジョゼットが、向かいに座っていた。
彼女は、何も言わなかった。良い侍女だ。私が泣くなら、泣く時間を、くれるつもりだったのだと思う。
私は、泣かなかった。
泣く代わりに、膝の上の手を見ていた。震えていなかった。確かめる手順は、また、忘れていた。
王都の朝を、馬車が進んだ。
通りに、パン屋の匂いがした。
私は、今朝、誰の朝食も、手配していないことに、気づいた。母の窓も、父の獲物も、妹の日傘も、夫の手紙も、何も。
初めて、誰のためでもない一日が、始まっていた。
「奥様」
と、ジョゼットが言った。それから、言い直した。
「……クレマンス様。今日の朝食は、何にいたしますか」
私は、答えようとした。
何も、出てこなかった。行きたい場所と、同じだった。二十四年、朝食は、他の人の物だった。
「分かりません」
と、私は言った。正直に。
「では、パン屋で、何か買って参ります」
「ええ。……ジョゼット」
「はい」
「私の分は、私が選びます」
「はい」
彼女は、少しだけ、笑った。
私も、少しだけ、笑った。
馬車は、第三区へ向かっていた。私が、初夜に、紙に書かせた家へ。行く場所だ。行きたい場所かどうかは、まだ、知らない。
知らないことを、私は、これから一年、一つずつ、数えていく。数えるのは、得意だ。




