第21話 引継書、四十枚
退去まで、三十日。
私はそれを、引継書を書く日数として使った。
一枚目。モンフォール家の書簡の原則。旦那様の声。簡潔。断定。形容詞は一文に一つ。相手の功績を一つ、自分の関心を一つ。返事は三日以内。遅れたら、遅れた理由ではなく、遅れた間に起きた良いことを書く。
二枚目から十三枚目。十二の家。当主、奥方、子、誕生日、好むもの、嫌うもの、誰と不仲か、誰に借りがあるか。ルネに渡した一覧より、詳しく。
十四枚目。絶対に守ること。シャルヴィル内務卿夫人には、花より物、物より手間。ヴァレンヌ公爵の前で、馬の話は、絶対にしない。ラ・トゥール伯爵の前で、決闘の話はしない。ブリュイエール伯爵夫人には、欲しいものを隠さない。
十五枚目から二十二枚目。社交暦。春の晩餐。夏の本領。秋の狩り(旦那様は同行しない。猟場係に任せる)。冬の舞踏会。誰を招き、誰を招かないか。
二十三枚目から三十枚目。家政。使用人の給料は月払い。下働きの子が熱を出したら、医者代は家が持つ。庭師は、薔薇の剪定を秋の第二週に。花瓶の枝は、季節ごとに――ここで、私は、少し手を止めた。
枝は、私が選んでいた。一年。誰も、頼まなかった。
私は、書いた。「玄関の花瓶は、女中頭マルトに任せる。彼女は、正しい枝を知っている」。知っているかどうか、確かめたことはない。でも、彼女は、私が枝を替える朝、いつも、ホールにいた。見ていた人は、知っている。
三十一枚目から三十九枚目。献立。季節ごとの、旦那様の好み。旦那様が嫌うもの。客の好み。
その中に、一行、書いた。
『牡蠣は、献立に入れない。』
書いてから、見た。
それから、線を引いて、消した。
これは、この家の規則ではない。私の規則だ。私が出ていったあと、この家の食卓に牡蠣が並ぶことに、何の問題もない。ブランシュの大好物だ。旦那様は、それを知っている。
消した線の下に、書き直した。
『春の女主人の好みに、合わせる。』
四十枚目。最後の一枚には、こう書いた。
『この引継書は、一年の記録です。全部、貴方の声で書いてきました。これからは、貴方が、貴方の声で書いてください。ルネは、できます。』
署名欄は、空けた。
私はこの家の書簡に、一度も署名していない。最後の一枚にも、しないのが、帳簿として正しい。
十日目に、実家から手紙が来た。
母の字。妹が書いた、母の字。
『クレマンス
冬の舞踏会の招待の返事を、ブランシュの名で八通、書いてください。宛先を同封します。お前が出ていっても、家族であることは変わりません。』
私は、便箋を、一枚出した。
八枚ではなく、一枚。
『今後の礼状も、招待の返事も、ブランシュ自身が書きます。
私は、書きません。
C』
三行。
書きません、を書く手は、震えなかった。震えていないことを確かめる手順を、私は、忘れていた。忘れていたことに、封をしてから気づいた。
二度目の、いいえ。今度は、紙で。紙のほうが、口より、少しだけ、楽だった。
二十日目に、マルトが、部屋に来た。
手に、家の印を持っていた。家政用の、あの印。
「奥様。今月の給料台帳です。最後の分を、奥様が押してください」
私は、台帳を開いた。
月払いの給料。三十二人分。私が、この家で最初に変えたもの。
印を、押した。
マルトは、台帳を受け取って、閉じて、それから、動かなかった。
私は、彼女の顔を見た。
泣いていた。
女中頭が、奥様の部屋で、泣いていた。声は、出していなかった。真っすぐな背筋のまま、目だけが、濡れていた。
「マルト」
「……失礼いたしました」
「いいのです」
「奥様が、この家に来て、一年と、二十一日です」
彼女は、はっきりした声で、言った。
「下働きが、一人も、辞めませんでした。先代の頃は、年に四人辞めました。奥様の一年で、ゼロです。……それだけ、申し上げたくて」
数字だった。
彼女は、私に、数字で礼を言った。私が数字の人間だと、知っていて。私は、その数字を、受け取った。置く欄は、あった。この数字は、帳簿に書ける数字だった。
「ありがとう、マルト。貴女の枝は、正しい枝です」
「……え」
「引継書に、書きました。花瓶は、貴女に」
彼女は、頭を下げた。深く。長く。それから、台帳を抱えて、出ていった。扉が閉まる前に、小さな音がした。鼻をすする音だと、思うことにした。
二十五日目に、ジョゼットが言った。
「奥様。私を、連れて行ってください」
髪を解いている、いつもの時間だった。私は、鏡の中の彼女を見た。
「給料は、この家の半分も出せません」
「半分で、結構です」
「第三区の家は、小さいのです。侍女の部屋は、屋根裏になります」
「屋根裏で、結構です」
「なぜ」
彼女は、櫛を止めた。
「奥様の皿を、見る人が、要ります」
私は、鏡の中の自分を、見た。
それから、鏡の中の彼女を、見た。十八歳。この家で、私に最初についた侍女。婚礼の翌朝、乱れていない枕を見て、何も言わなかった人。
「……牡蠣のことを、知っていたのですか」
「最初の週から。奥様は、牡蠣の日に、パンしか召し上がりません。侍女は、皿を下げるのが仕事ですから」
皿を下げる人は、皿を見る。
私は、それを、知らなかった。一年、この家に、私の皿を見る人が、もう一人、いた。
「分かりました。来てください」
「はい」
「屋根裏は、寒いです」
「北の外套を、お作りになったでしょう。私にも、夫人費で、一枚」
「夫人費は、もう、ありません」
「では、奥様の費で」
私は、笑った。声が、出た。ジョゼットも、笑った。鏡の中で、二人が笑っていた。この部屋で、それは、初めてだった。
二十九日目に、ルネに、四十枚を渡した。
彼は、一枚目を読んで、十四枚目で手を止め、四十枚目で、目を赤くした。
「奥様」
「はい」
「僕は、死にません」
「そうですか」
「出してから、死にます。……出す手紙が、もう、山にならないので、たぶん、死ぬ暇がありません」
「良い秘書になります」
「奥様が、そう書いてくださったので」
彼は、四十枚を、胸に抱えた。あの一覧を抱えたときと、同じ抱え方で。
三十日目の夜。
荷物は、トランクが二つだった。
ドレス、三着。北の外套。灰色の革の手袋。帳面。五枚の紙。木片。海運新聞は、置いていくことにした。もう、船の行き先を読む必要がない気がした。理由は、分からなかった。分からないものは、置いていく。
夜、私は、屋敷を歩いた。
玄関ホール。花瓶。今朝、マルトが枝を替えていた。正しい枝だった。
ルネの部屋。机の上は、空だった。
書斎の前。扉は、閉まっていた。灯りが、漏れていた。ロドルフは、中にいる。私は、入らなかった。入る用がなかった。一年、この扉は、私が入って手紙を置き、彼が署名する扉だった。今夜、置く手紙は、なかった。
部屋に戻り、帳面を開いた。
最後の頁。侯爵夫人として書く、最後の記録。
『一年。
逸脱、四件。上着。牡蠣の皿。手袋。印材。
空白、二行。
ただし――』
ただし、の先は、今夜も、書けなかった。
私は、そのまま、帳面を閉じた。
閉じた帳面を、トランクの、いちばん上に入れた。
明日、門に、あの人が来る。
手紙に、そうあった。五日かけて、北から来た手紙に。『連れて行くためではない。それは、噂を本当にする。別れを言うために、門に行く』。
別れ。
私は、その言葉を、まだ、受け取っていなかった。受け取る欄が、なかった。明日、欄を作らなければならない。
それは、私が、この家で作る、最後の欄だった。




