第20話 幕間・署名(ロドルフ視点)
私は、嘘をついたことがない。
それは、私の信条であり、私が自分を測る、たぶん唯一の物差しだ。父は嘘をつく人だった。母に、借金の額を。私に、跡を継がせない、と。私は十五で、自分は父と違う人間になる、と決めた。以来、十三年、守っている。
だから、婚姻院へ行く朝、私はまず、シャルヴィル内務卿の執務室へ行った。
短縮の裁可には、内務卿の署名が要る。私は事情を、全部話した。妻の側の事情で、合意により、早めに離縁したい。過失は、双方にない。分与は取り決めてある。
内務卿は、私の話を聞いて、署名した。
それから、ペンを置いて、言った。
「君の奥方は、良い手紙を書く」
私は、少し、言葉に詰まった。
「……はい。有能です」
「妻が言っていた。モンフォールの手紙は、去年から急に良くなった、と。誰が書いているか、妻は知っている。妻は、そういうことを、知る人だ」
内務卿は、私を見た。
「惜しいな」
と、彼は言った。それだけだった。
私は礼を言い、執務室を出た。廊下で、少し、立ち止まった。
惜しい。
その言葉が、誰に向けられたものか、私は考えた。私に、ではなかった。彼は、私に向けて「惜しい」と言ったのではない。私が失うものに向けて、言ったのだ。
三年、あの家の招待を待った。届かなかった。妻が一通書いたら、届いた。
私はそれを、「妻は有能だ」という一行で、帳簿に収めていた。
内務卿は、今、その一行の下に、別の一行を書いた。私の評議会の名は、私の手紙で載ったのではない、と。
婚姻院は、灰色の建物だった。
窓口の前に、私と、彼女が、並んで座った。従弟は、来ていない。彼が来る場所ではない。
書記が、書類を読み上げた。合意による婚姻の解消。分与、金貨三千枚。第三区の家屋一軒。年金、年に金貨二百。過失、双方なし。内務卿の裁可により、期間短縮。
「署名を」
私は、署名した。
ロドルフ・ド・モンフォール。二十八年、書いてきた名だ。手は、動いた。
ペンが、彼女に渡った。
私は、彼女が署名するのを、見た。
クレマンス・ド・モンフォール。
彼女の手は、迷わなかった。細い、真っすぐな字。私は、その字を、知っていた。二百通――いや、この一年で、たぶん、五百通。私の机に置かれた下書きは、全部、この字で書かれていた。私は、その上に、自分の署名を重ねてきた。読まずに。二週目からは、読まずに。
だから、彼女の字は、五百通、見ていた。
署名は、初めて見た。
彼女は、自分に関する文書に、自分の名を書いていた。
私の声で書かれた手紙ではなく。妹の字で書かれた礼状ではなく。彼女自身について書かれた紙に、彼女自身の名を。
私は、それを、たぶん、初めて見た。そして、それが初めてであることに、初めて、気づいた。
書記が、印を押した。
終わった。
建物を出るとき、彼女は「ありがとうございました」と言った。私に、ではない。書記に。それから、私に頭を下げて、別の馬車に乗った。屋敷へ帰るのだ。退去まで、三十日ある。
私は、自分の馬車に乗って、しばらく、動かなかった。
初夜のことを、考えていた。
条件を四つ。相手役は会ってから。接触なし。家政の権限。そして、紙に。
「私は君に嘘をつかない」と私は言った。彼女は「はい。ですから、紙に」と言った。
あのとき、私は、彼女が慎重なのだと思った。有能な人間の、当然の慎重さ。私はそれを、むしろ、好ましいと思った。
違った。
彼女は、あの夜、今日を知っていた。
私が、いつか、彼女に有責を持ち出す日が来ることを。私が嘘をつかない人間であることと、私が彼女の名を過失の欄に書こうとすることが、矛盾しないことを。彼女は、初夜に、知っていた。
嘘をつかない男は、見なかったものについては、何も言わない。私は、彼女を、見ていなかった。それは嘘ではない。ただ、見ていなかった。
馬車を、カステラン邸へ向けた。
伯爵は、玄関で私を迎えた。
私は、婚姻院の写しを見せた。合意。過失なし。分与あり。伯爵の顔が、少し曇った。有責なら、三千枚が残った。彼はそれを、口には出さなかった。私が、それを口に出させない顔をしていたのだと思う。
「半年ほど、間を置きます。それから、ブランシュを」
伯爵夫人が、手を叩いた。
ブランシュが、階段を下りてきた。
水色のドレス。空が晴れていたからだ。彼女は、私の腕を取った。私は、彼女の前で、いつもの顔をした。しようとした。できたと思う。彼女は微笑んだ。彼女の微笑みは、上手い。
「嬉しい、ロドルフ様」
「ああ」
「春には、あの館の女主人ですね。手紙に、書いた通り」
手紙。
誕生日の手紙。短くて、はっきりしていて、私の好きな形の。
私は、その手紙を、書斎の抽斗に入れている。もともと持っていたのだな、と私は言った。彼女の姉は「いいえ」と答えた。教えていない、と。
教えていない。
私は、その「いいえ」を、今、腕を取っているこの人の隣で、思い出した。教えていない。では、何をしたのか。
私は、その先を、考えなかった。考えれば、この玄関で、何かが起きる。
伯爵夫人が、私と娘を見て、目を細めていた。伯爵が、葡萄酒を開けると言った。全部、計画の通りだった。一年前に、私が組んだ筋書きの、最後の景色だ。
計画通りの景色は、なぜ、こんなに、音が小さいのか。
私は、その理由を、知らなかった。
屋敷に戻ったのは、夕方だった。
玄関ホールの花瓶に、秋の枝が挿してある。誰が選んだか、分かる。一年、この家の花瓶は、いつも、正しい枝が入っていた。私はそれを、花瓶が勝手にそうなるものだと、思っていたわけではない。ただ、見ていなかった。
ルネの部屋の前を通った。机の上に、手紙の山がなかった。全部、返事が出ている。
女中頭が、廊下で頭を下げた。下げた頭が、以前より深く、長い。私は、彼女の目を見なかった。
静かだった。
この家が、こんなに静かだったことは、ない。いや、あった。父が死んで、母が死んで、私が一人でこの家に帰ってきた六年前。あのときと、同じ静けさだ。
でも、あのときは、家の中に、誰もいなかった。
今は、いる。三十日、まだ、いる。
いるのに、静かだった。私は、その静けさに、名前をつけられなかった。
書斎に入った。
机の、右の抽斗。彼女の下書きが、束で入っている。私が署名したあと、彼女が回収せずに残していった分。五百通の、何割か。
私は、抽斗の取っ手に、手を置いた。
開ければ、彼女の字がある。私の声で書かれた、彼女の字。それを、私は、今日、婚姻院で、初めて、彼女の字として見た。
開けなかった。
手を、離した。
私は、嘘をついたことがない。
今日も、ついていない。私は、彼女に、有責を提案した。それを悪い提案だと思っていなかった。それは本当だ。彼女は「いいえ」と言い、五枚の紙を並べ、私を破滅させない、と言った。それも本当だ。私は合意で申請した。それも本当だ。
全部、本当だ。
本当のことだけでできた一年の、いちばん最後に、私は、自分の抽斗を開けられなかった。
それも、本当だった。




