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愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


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第19話 観客は、まだ何も言わない

 その夜、淡い紫の封筒が届いた。

 ヒースの花の封蝋。宛名は、私の名。


『今夜。お一人で。時計が、あなたのことばかり言うの。』


 私は、外套を着た。

 ロドルフは、書斎から出てこなかった。マルトが「馬車を」と言い、私が「ええ」と言った。それだけで、馬車が出た。この家で、私の言葉で馬車が出るようになったのは、いつからだったろう。


 七つの時計は、全部、違う時刻を指していた。

 いちばん大きな時計が、九時を打っていた。


「座って、クレマンス」


 ブリュイエール夫人は、茶ではなく、酒を出した。北の林檎の酒だった。私は、それを見て、少し、手が止まった。夫人は、その手を見た。


「宿の女将が、北街道で林檎酒を出すのは、知っているのよ。あそこの女将の姉が、うちの料理番だから」


 私は、酒を一口飲んだ。甘くて、喉が熱くなった。


「今朝、カステラン伯爵が、あなたの夫の家に入った」


 夫人は、自分の酒を飲まずに、言った。


「十時。出てきたのは十時四十分。上機嫌だった。それから、ノルマン夫人の時計が、午後になって、一つの言葉を言い始めた。有責。……ノルマン夫人は、あなたの父の従妹よ。知っていた?」

「いいえ」

「知らないことが多いのね、あなたの家について。あの家は、あなたに何も言わないから」


 私は、答えなかった。答えは、夫人が持っていた。


「それで、私は、決めたの」


 夫人は、居間の七つの時計を、順に見た。


「三十年、観客をしてきた。一度も、舞台に上がったことがない。それが、観客の礼儀だから。……でも、今回は、上がってもいい、と思った」

「上がる、とは」

「婚姻院で、証言するの。私は一年、あの桟敷を見ていた。あの男は一度も、あなたの手に触れなかった。あれは演技だった。誰の手配だったかも、だいたい、見当がついている。……三十年の観客が、初めて舞台に上がる。悪くない引退公演でしょう」


 私は、酒を置いた。


「ありがとうございます」


 と、私は言った。


「でも、もう、済みました」


 夫人の眉が、動いた。


「済んだ」

「今日の午後、書斎で。私は、紙を五枚、並べました。初夜の署名。夫が従弟に書いた手紙。私の日記。女中頭の証言。宿帳。……有責で出されるなら、それを答弁として出す、と申し上げました。それとも、合意で今すぐ申請するか、と」

「……彼は」

「明日、返事をする、と」


 夫人は、しばらく、私を見ていた。

 それから、自分の酒を、初めて一口飲んだ。


「五枚」

「はい」

「一年、取っていたのね」

「帳簿の人間ですから」


 夫人は、笑わなかった。ただ、頷いた。


「それで、あなたは、何を取るの」

「紙に書いてあるものを。金貨三千枚。第三区の家。年金。それだけです」

「それだけ」

「それだけです」


 夫人は、扇を持っていなかった。膝の上で、手を組んでいた。


「復讐は」

「しません」

「なぜ」


 私は、少し、考えた。

 考えたのは、答えではなかった。答えは、決まっていた。考えたのは、それを、この人に言う言葉だった。


「合わないからです」


 と、私は言った。


「彼は、私に、いろいろなことをしました。私を紙に書き、相手役を手配し、私の乳母の墓を噂の肥料と呼び、今日、私の名を過失の欄に書こうとしました。私は、そのどれも、彼にしません。私が彼にされたことを、彼にする。それは、私の帳簿の付け方に、合わないのです。合わないものを、私は、帳面に残せない」


 夫人は、何も言わなかった。

 時計が、一つ、九時半を打った。ほかの時計は、まだ打たなかった。


「あなた」


 と、夫人は、ゆっくり言った。


「初めて、自分のことを、話したわね」


 私は、酒を見た。


「……そうでしょうか」

「十四のときから、あなたの手紙を読んでいる。母の名で、妹の名で、夫の名で。全部、上手かった。上手すぎた。あなた自身のことは、一行も書いてなかった。今日、初めて、あなたは、自分の帳簿の付け方について、話した」


 夫人は、酒を置いた。


「では、私も、まだ、何も言わない」

「え」

「観客は、待つ。それが仕事。あなたが、自分で済ませたのなら、私が舞台に上がる幕は、まだ来ていない。……ただ、覚えておいて」


 彼女は、私の目を見た。


「観客の権利は、一度使ったら消えるものではないの。演技が下手だ、と言う権利。それを、私は、一年前、一度使った。いつか、もう一度、使う。あなたが必要なときに。あなたが望まなくても」


 私は、その言葉を、受け取った。

 どこに置くべきか、分からなかった。欄がなかった。欄のないものは、この一年で、ずいぶん増えた。私は、それを、以前ほど、困ったことだと思わなくなっていた。


「一つ、教えてあげる」


 夫人は、立ち上がりながら言った。


「あの男は、今、どこにいると思う」

「宿です。戻る、と言っていました」

「そう。宿の食堂で、一人で、林檎酒を飲んでいる。二時間。一杯目が、まだ半分残っている。……私の時計の一つは、あの宿の帳場にもあるの」


 私は、夫人を見た。


「演技をしていない男は、待つのも、下手ね」


 夫人は、そう言って、扉を開けた。


 帰りの馬車で、私は、窓の外を見なかった。

 膝の上に、手を置いていた。震えていなかった。今日、二度目に確かめた。


 宿の食堂。林檎酒。一杯目が、半分。二時間。

 私は、その景色を、見たことがない。でも、見えた。暖炉の前の、大きな背中。椅子が小さい。北の男は、待つのが下手だ、と夫人は言った。

 待っているのだ、と私は思った。

 私が、明日、どうなるかを。

 彼は、それを、自分の借金より先に、待っている。


 屋敷に戻ると、私の机の上に、紙が一枚あった。

 折らずに、置いてあった。この家の便箋。短い。


『合意で、申請する。

 明朝、婚姻院へ。

                    R』


 三行。

 彼は、明日返事をする、と言った。そして、その夜のうちに、紙に書いた。

 何でも紙にする人だ。私は、それを知っていた。だから、初夜に、紙に、と言った。この一枚は、あの夜の一枚の、返事だった。一年かけて、届いた返事。


 私は、抽斗を開けた。

 初夜の封筒。子爵の手紙。日記。木片。

 その上に、この一枚を、置いた。


 この家で、私の物と言えるものが、三つになった。

 初夜の紙。何も彫られていない木。そして、今夜の三行。

 私は抽斗を閉めて、寝台に入り、枕を抱えた。

 抱えなくても眠れそうな夜だった。それでも、抱えた。二十四年の癖は、一晩では変わらない。

 変わるものもある、と、今日、知った。口の中の、いいえ、の形は、二度目には、少し、馴染んでいた。


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