第18話 有責という言葉
父は、朝の十時に来た。
私は呼ばれなかった。玄関ホールで、父は私に「おお、クレマンス」と言い、それから書斎へ入っていった。おお、の後に続く言葉が、父にはなかった。二十四年、なかった。
私は、ホールに残った。
マルトが、書斎の扉の近くで、花瓶の枝を直していた。直す必要のない枝を。彼女は私を見て、何も言わなかった。私も何も言わなかった。女中頭が扉の近くで花を直すのは、この家の帳簿のどこにも書かれていない。だから、私はそれを、見なかったことにした。
扉は、厚い。
でも、父の声は、扉より厚い。
「――好機だ、侯爵。有責で申請すればいい。二年など、待つ必要はない」
「伯爵。相手役は、私が手配した男です」
「世間は知らん。子爵が認めれば済む話だ。借金を帳消しにしてやれば、認めるだろう。北の男は金に弱い」
「……」
「慰謝料も要らん。分与も要らん。記録に過失が残れば、娘は何も請求できん。金貨三千枚が、そのまま残る。ブランシュの支度に回せる。春には、迎えられる」
「クレマンスは、どうなります」
「自業自得だ。北街道の宿に、男と二晩泊まったのは事実だろう。事実をそのまま記録すればいい。……娘には、あとで幾らか渡せばいい。あの子は、頼めば断らん」
あの子は、頼めば断らん。
私は、ホールの真ん中で、その一文を、受け取った。
父の声で、初めて聞いた。母の声でも、妹の声でも、夫の声でも、聞いたことがある。父の声で聞いたのは、初めてだった。それは、この家族の、たぶん唯一の、全員の合意事項だった。
「考えさせてください」
と、ロドルフが言った。
父は、上機嫌で出ていった。玄関で、私に「おお、クレマンス」と言った。それだけだった。
午後三時、私は書斎に呼ばれた。
子爵も、呼ばれていた。宿から。彼は、いつもの上着で、扉を斜めに通った。私と目が合った。何も言わなかった。それでよかった。
ロドルフは、机の向こうに座っていた。
私と子爵は、立った。彼は、私たちを座らせなかった。座らせない、という判断を、彼はしたのだと思う。
「私は、君に嘘をつかない」
彼は、そう始めた。いつもの言葉で。
「だから、全部話す。伯爵は、有責での申請を勧めている。理由は、三つ。速い。金がかからない。世間はもう、そう思っている」
彼は、指を組んだ。
「オノレ。君が、不貞を認める。婚姻院に、一枚、書けばいい。借金は、帳消しにする。残りの全額だ」
「クレマンス。表向きは、君の過失になる。記録に残る。分与は、法律上、請求できなくなる。だが、私は、内々に、金貨五百を渡す。北へでも、どこへでも、行けばいい。君は有能だ。どこでも、やっていける」
彼は、私を見た。
「これが、いちばん、筋が通っている。君が私にくれた紙の中身は、大方、守る。額は減るが、それは君の側の事情が変わったからだ。……私は、これを、悪い提案だとは思っていない」
彼は、本当に、そう思っていた。
それが、この人だ。隠さない。丸めない。自分の中で筋が通ったことを、そのまま口に出す。二十八歳。有能で、正直な男。
子爵が、口を開いた。
「断る」
一語だった。
声は、大きくなかった。ただ、部屋の空気が、少し重くなった。
「借金が、消えるぞ」
「いらん。前にも言った。あの人と人前に出て金をもらうのは、合わない。あの人の名を汚して金をもらうのは、もっと合わない」
「北の男は、金に弱いと聞いた」
「あなたの義父の話だ。俺の話ではない」
ロドルフは、少し、黙った。
それから、私を見た。
「クレマンス。君は」
私は、口を開いた。
「いいえ」
その言葉は、私の口の中で、知らない形をしていた。
二十四年、使ったことのない言葉。頼まれれば、断らない。それが私だった。母が言い、妹が言い、夫が言い、今朝、父が言った。全員が合意していた。私自身も、そこに含まれていた。
いいえ、と言った口が、少し、震えた。震えていないことを確かめてから喋る、いつもの手順が、間に合わなかった。
ロドルフは、瞬きをした。
「……君は、頼まれれば断らない、と言った」
「頼まれていないことを、勝手にする、と申し上げました。初夜に。これは、その勝手の一つです」
私は、抱えてきた帳面を、机の上に置いた。
それから、封筒を、一つ。
「一つ目。初夜に、貴方が署名した紙です。二年後の合意離婚。金貨三千枚。第三区の家。年金。相手役との接触なし。日付と、貴方の署名」
彼は、封筒を見た。親指で押した蝋を。
「二つ目」
私は、子爵を見た。彼は、上着の内側に手を入れて、折った紙を出し、机に置いた。
「あなたが、俺に書いた手紙だ。役目の内容。頻度。期間、二年。借金の免除の条件。妻に接触しないこと。妻もそれを承知していること。署名と、日付」
ロドルフの顔が、変わった。
初めて、見る顔だった。妹の前の顔でも、有能な男の顔でも、毛布を掛けた夜の顔でもない。自分が書いた紙が、自分の机の上に戻ってきた男の顔。
「……持っていたのか」
「あなたは、何でも紙にする。俺は、紙を捨てない。それだけだ」
「三つ目」
私は、帳面を開いた。
「私の日記です。婚礼の日から、毎日。初夜の会話は、その夜のうちに書きました。貴方が言った言葉を、そのまま。『君を愛することはない』から、『相手役はこちらで手配した』まで」
「四つ目。この屋敷の女中頭、マルトは、一年間、旦那様と奥様の寝室が別であったことを、証言できます。白い結婚であることは、この家の全員が知っています。――マルト」
扉の外から、声がした。
「はい、奥様」
ロドルフは、扉を見た。それから、私を見た。
「五つ目。北街道の宿『三本川』の宿帳。往復とも、部屋は二つ。二階の角と、一階の奥。女将が、二度、書いています」
私は、五つを、机の上に並べた。
帳簿を、閉じるときの手順で。
「有責で申請されるなら、私はこれを、婚姻院へ、答弁として提出します。認定される過失は、私の不貞ではありません。貴方の、婚姻院への欺罔です。合意離婚の名目で、離縁の口実を偽装し、従弟に役を割り当て、妻に承知させた。……評議会の席は、消えます。たぶん、席だけではなく」
部屋は、静かだった。
マルトが直していた枝が、花瓶の中で、小さく音を立てた気がした。
「それとも」
私は、続けた。
「合意離婚を、今すぐ、申請なさいますか。満二年には、まだ一年、足りません。三十二条。内務卿の裁可で、短縮できます。貴方には、その伝手があります」
私は、一つ、息を吸った。
「私が、作った伝手が」
ロドルフは、五つの紙を、見ていた。
長い時間だった。実際には、たぶん、十秒か二十秒。
「条件は」
と、彼は、低く言った。
「初夜の紙のままです。金貨三千枚。第三区の家。年金。それに、一つだけ、加えます。私は、この件について、一生、何も言いません。この五つは、婚姻院に出さず、私が持って出ます。誰にも、見せません」
「……それだけか」
「それだけです」
彼は、顔を上げた。
「私を、破滅させられるのか」
と、彼は言った。
問いではなかった。確認だった。自分の机の上に、それができる紙が五枚並んでいることの。
私は、彼を見た。
まっすぐに。扇は、持っていなかった。
「させない、と、申し上げているのです」
と、私は言った。
「それが、貴方と私の、違いです」
彼は、何も言わなかった。
言えなかったのだと思う。彼の帳簿には、この答えの欄が、なかった。私の帳面に、彼の毛布の欄がなかったように。
「明日、返事をする」
と、彼は、ようやく言った。
「今日は、下がってくれ。二人とも」
私は、五つの紙を、集めた。
帳面のあいだに挟み、封筒と手紙を、その上に重ねた。子爵が書斎の扉を開け、私が先に出た。マルトは、花瓶の前で、枝を持ったまま立っていた。彼女は、私を見て、深く、頭を下げた。長く。
玄関ホールで、子爵が言った。
「宿へ戻る」
「はい」
「……初めて、いいえ、と言ったのか」
「はい」
「どうだった」
「口の中で、知らない形をしていました」
彼は、頷いた。
それから、扉を斜めに通って、出ていった。
私は、階段を上がった。
自室で、五つの紙を、抽斗に入れた。木片の隣に。
抽斗を閉めて、私は、しばらく、机の前に座っていた。
手が、震えていた。
今になって。書斎では、震えなかった。
私は、震える手を、膝の上に置いて、震えが止まるまで、待った。
止まるまで、ずいぶん、かかった。




