第17話 ナネットの墓
セルの村は、川と、教会と、二十軒の家でできていた。
ヴェルネの領地の、すぐ隣。子爵の土地ではない。でも、村の人は、彼の顔を知っていた。子供が、馬を見て、彼の名を呼んだ。
「墓は、教会の裏だ」
彼は、馬を下りて、言った。
「俺は、ここで待つ」
教会の裏は、小さな墓地だった。
石が、四十ほど。古いものは、字が読めない。新しいものは、字が読める。私は、その間を歩いた。何を探しているか、分かっていた。名前だ。私は、名前を探すのが、得意だ。二百通の手紙の差出人を、五週間で全部覚えた。
石は、墓地の端にあった。
川に、いちばん近いところ。
『ナネット・ル・ルー
セルの娘
享年五十一』
石は、洗われていた。
周りの石には、苔がある。この石には、なかった。誰かが、最近、洗った。誰が洗ったか、訊かなくても分かった。私は、後ろの、教会の壁のそばに立っている人を、振り返らなかった。振り返れば、何かが、この墓地で起きる。
私は、膝をついた。
土の上に。外套の裾が、土についた。
膝をつくのは、慣れている。劇場の廊下で、妹の裾に。実家の食堂で、母の落とした扇に。この十年、私は、何度も膝をついた。全部、誰かのために。
今日は、違った。
今日は、私のために、膝をついた。生まれて初めて、だと思う。
石に、手を置いた。
冷たかった。秋の北の石は、王都の冬の石より冷たい。
「ナネット」
と、私は言った。
声が、出た。それに、自分で驚いた。
「遅くなりました」
それだけ言うつもりだった。
それだけ言って、立ち上がるつもりだった。私は、そういう人間だ。用件を言って、立つ。膝をついたら、四針縫って、立つ。
立てなかった。
最初に、目が熱くなった。
それから、喉が、詰まった。牡蠣のせいではない。
それから、私は、泣いた。
泣いたのは、たぶん、十七年ぶりだった。
ナネットが北へ帰った日、私は七つで、玄関で泣いた。母が「うるさい」と言った。ブランシュが赤子で、泣いていたからだ。二人が泣くと、母の神経に障る。だから、私は、その日、泣くのをやめた。
やめたものは、やめたままになる。十七年。
誰かの皿を見る。誰かの裾を縫う。誰かの名で手紙を書く。泣く時間は、その間に、なかった。泣く欄は、私の帳簿に、なかった。
石の上に、水が落ちた。
私は、それを、袖で拭かなかった。
「私の皿を、見てくれる人が」
と、私は、石に言った。
「いました。もう一人。……三週間で、牡蠣が食べられないことに、気づいた人です。貴女は、二日で気づいたと、言っていました。あの人は、三週間かかりました。貴女のほうが、早い」
自分で言って、少し、笑った。泣きながら。
それができることを、私は知らなかった。
それから、歌った。
小さく。歌詞のない、旋律だけの歌。ロンヌ、ヴィエ、セル。川の名が三つ出る、とあの人は言った。私は、歌詞を知らない。だから、旋律だけを、石に返した。ナネットが私に置いていったものを、十七年持って、ここまで運んできた。それを、返した。
歌が終わって、私は、しばらく、石に手を置いていた。
石は、少し、温かくなっていた。私の手の温度だ。それだけだ。それだけのことが、嬉しかった。
立ち上がって、教会の壁のところへ戻った。
彼は、そこにいた。動いていなかった。私が墓地に入ってから出るまで、たぶん、一歩も。
顔を見られたくなかった。目が、腫れている。私はそれを、隠さなかった。隠すものが、なかった。扇は、馬車の中だ。
彼は、私の顔を見た。
何も、言わなかった。手を、伸ばさなかった。
大きな手が、彼の脇で、一度、握られて、開かれた。それだけだった。
「触れない、という契約だ」
と、彼は、低く言った。
「はい」
「破りたい、と、記録しておいてくれ」
私は、彼を見た。
彼は、私を見ていた。墓地でも、教会でも、川でもなく。
「……四件目に、なりませんか」
「ならない。破っていない。破りたい、と思っただけだ」
「思っただけのことは、記録しなくて、いいのでは」
「あなたは、記録がないと、不安になる質だと言った」
私は、頷いた。
それから、馬車に戻った。彼は、馬に乗った。
村を出るとき、子供が、また彼の名を呼んだ。彼は、手を上げた。
帰りの宿は、同じ「三本川」だった。
女将は、私の顔を見て、何も言わなかった。部屋は二つ。宿帳。侯爵夫人、二階の角。子爵、一階の奥。彼女は、また、覚えた。
その夜、帳面に書いた。
『セルの村。教会の裏。石、洗われていた。
膝をついた。泣いた。歌った。
逸脱、なし。ただし――』
ただし、の先が、書けなかった。
彼は、触れなかった。契約は、守られた。逸脱は、ない。ただし、彼は、破りたいと言った。それを記録しろと言った。記録する欄が、私の帳面には、なかった。
私は「ただし」の先を空けたまま、帳面を閉じた。
空白が、二つになった。シャルヴィル邸の夜と、今夜。
王都に戻ったのは、五日後だった。
玄関に、マルトがいた。
顔を見て、すぐに分かった。何かが、あった。彼女の口は、真っすぐで、目が、私の顔と、私の後ろの子爵を、順に見た。
「奥様。お帰りなさいまし。……お部屋で、お話が」
部屋で、ジョゼットが、一枚の紙を差し出した。
『王都便り』。週に二度出る、社交界の噂の刷り物。ブリュイエール夫人は、これを「時計の針が壊れた時計」と呼んでいる。
三段目に、あった。
『M侯爵夫人とV子爵、北街道の宿にて。
乳母の墓参りという名目で、侯爵夫人が北へ向かったのは、先々週のこと。同行したのは、夫君の従弟であるV子爵。街道の宿「三本川」に、二人は二夜、同じ屋根の下で過ごした。
部屋が二つであったかどうかは、宿の女将のみが知る。
侯爵は、この旅を快く許したという。寛大な夫君である。あるいは、寛大でいられる理由が、別にあるのか。』
私は、二度読んだ。
三度は、読まなかった。三度読む必要のある文章ではなかった。
「誰が」
と、私は訊いた。
「市場で聞いた話では」
ジョゼットは、小さな声で言った。
「ノルマン夫人のサロンから出た、と。ノルマン夫人は『良家の若いお嬢様が、お姉様を心配して、打ち明けてくださった』と言っているそうです」
良家の、若い、お嬢様。お姉様を、心配して。
私は、目を閉じた。
開けた。
あの日、玄関ホールで、北からの手紙を見た妹の顔。「お姉様にも、お手紙を書く人がいるのね」。悪意はなかった。妹の言葉には、いつも、悪意がない。ただ、皿を、少し、ずらす。
今度、ずらされた皿は、私の名前だった。
夕方、ロドルフが帰ってきた。
彼は、私を書斎に呼ばなかった。廊下で、すれ違いざまに、言った。
「読んだか」
「はい」
「話がある。明日、伯爵が来る」
それだけだった。彼の顔は、いつもの顔だった。有能な男の顔。ただ、目が、私の顔ではなく、私の少し横を見ていた。何かを、計算している目だった。
夜、私は帳面を開いた。
今日の日付。帰京。『王都便り』。
私は、書斎の法令集の、婚姻院規則を思い出していた。三十三条。
一方の過失による解消の申請は、期間の制限を受けない。過失を認定された者は、持参財産及び分与を請求する権利を失い、その旨を記録される。
不貞。
その一語で、筋書きが、書き換わる。
彼の筋書きだった。二年で合意離婚、金貨三千枚、第三区の家。私が、初夜に、紙に書かせた筋書き。
その紙を、彼は、もう、必要としなくなるかもしれない。
私は、抽斗を開けた。
初夜の封筒。親指で押した蝋。
その隣に、まだ何も彫られていない木片。
私は、両方を、机の上に出した。
並べて、見た。
どちらも、私の物だった。この家で、私の物と言えるのは、この二つだけだった。




