第16話 北街道
出発の朝、ロドルフは玄関まで出てきた。
珍しいことだ。彼が私を見送ったことは、一度もない。だから私は、それが誰のための見送りか、すぐに分かった。門の外に、朝の散歩の隣家の奥方がいた。向かいの屋敷の窓が、一つ開いていた。使用人は玄関に六人。
「気をつけて。オノレ、妻を頼む」
彼は、はっきりした声で言った。門の外まで届く声で。子爵は「ああ」と答えた。彼の声は、いつも通りの大きさだった。
私は、新しい外套を着ていた。
夫人費で作った、濃い灰色の羊毛の外套。仕立屋が「北へ行かれるなら、これくらい厚くないと」と言った。私は、自分のために厚い物を作ったのは、初めてだった。袖を通したとき、少し、重かった。上着ほどではなかった。
馬車が門を出るとき、私は振り返らなかった。
ロドルフは、もう、玄関から中へ戻っていただろう。見せるべき人には、見せた。それで、彼の朝の仕事は終わっている。
子爵は、馬車に乗らなかった。
馬で、馬車の隣を走った。
「中は、狭い」
と、彼は最初の休憩で言った。
「五日は、長い。それに、あなたは、馬車の中で海運新聞を読む。俺がいると、読めないだろう」
「読めます」
「読めるか」
「……読みにくいです」
彼は、頷いて、馬に戻った。
私は馬車の窓から、彼の背中を見た。大きな背中が、秋の光の中を、一定の速さで進んでいく。私の馬車の速さに、合わせた速さで。
王都を出て、二日目までは、平らな麦畑だった。
刈り終わった畑が、地平まで続いている。三日目、丘が始まった。丘の上に、初めて、あの木を見た。
「あれが、ハンノキだ」
休憩で、彼が指した。川べりの、細い木の列。花も実も、見えない。ただ、川の岸に沿って、真っすぐ、並んでいる。
「地味ですね」
「地味だ」
「でも、あそこの岸は、崩れていない」
「そうだ」
彼は、それだけ言って、また馬に乗った。私は、その木の列を、馬車が丘を越えるまで見ていた。
四日目の夜、北街道の宿に泊まった。
「三本川」という看板の、石造りの宿。女将は五十くらいの、腕の太い女性だった。
「部屋は、二つ」
子爵は、宿の入口で言った。大きな声で。女将だけでなく、食堂にいた旅人の何人かが振り向く声で。
「侯爵夫人に一つ。俺に一つ。階が違えば、なお良い」
「はい、はい。お連れの方と、別々に。ようございますよ」
女将は、私と子爵を、順に見た。それから、帳場の宿帳に何か書いた。侯爵夫人、二階の角。子爵、一階の奥。
私はそれを見て、思った。この女将は、覚える人だ。ブリュイエール夫人が時計に覚えさせるものを、この人は、宿帳に覚えさせる。
夕食のあと、食堂の暖炉の前に、二人で座った。
旅人は、みな部屋へ上がっていた。女将が、酒を一杯ずつ置いていった。北の、林檎の酒だった。
「一つ、訊いていいか」
彼が言った。暖炉の火を見たまま。
「はい」
「あなたの乳母は、どういう人だった」
私は、酒を一口飲んだ。甘くて、少し、喉が熱くなった。
「セルの村の人です。私が生まれたとき、実家に来ました。手が大きくて、いつも乾いていました。歌が、上手でした。夜、眠れないと、歌ってくれました。……私の皿を、見る人でした」
「皿を」
「私が何を食べて、何を食べなかったか、見る人でした。牡蠣で私が寝込んだとき、三日、手を握っていました。あの家で、私の皿を見た人は、あの人だけです」
火が、一つ、爆ぜた。
「七つのとき、北へ帰りました。母が、そう決めました。ブランシュが生まれて、乳母は若い人に替える、と。ナネットは、私に、歌を一つ、置いていきました。歌詞のない歌です。歌詞は、あるのですけれど、私は覚えられなかった。旋律だけ」
「聴いた」
と、彼は言った。
私は、彼を見た。
「馬車の中で。去年の冬。あなたが、俺が眠っていると思ったときに」
「……起きていらしたのですか」
「北の男は、王都の馬車で眠れない」
私は、しばらく、何も言えなかった。
顔が、熱かった。林檎の酒のせいだと、思うことにした。
「あの歌は、セルの村の子守歌だ」
彼は、火を見ながら言った。
「川の名が、三つ出る。ロンヌ、ヴィエ、セル。北から順に。子供に、川の名を覚えさせる歌だ」
ロンヌ、ヴィエ、セル。
手紙に、彼が書いた三つの名。私が帳面の余白に書いた、自分のために覚えた、初めての地名。
それは、私が七つまで、毎晩聴いていた歌の中にあった。私は歌詞を覚えられなかったから、川の名だと知らなかった。旋律の中に、二十四年、その三つの名は、あった。
「……知っていて、書いたのですか」
「知っていて、書いた」
「なぜ、教えてくださらなかったのですか」
「手紙で教えるのは、合わない、と思った」
合わない。
私は、酒を飲んだ。喉が、熱かった。
しばらく、火だけが、音を立てていた。
「子爵」
「なんだ」
「貴方の台帳には、何が書いてあるのですか」
彼は、少し黙った。
「あなたが、訊かないことを書いている」
「……見せてくださいますか」
「二年経ったら」
私は、それ以上、訊かなかった。二年経ったら。それは、私がこの家を出る日だ。その日に、私は、彼の台帳を見る。彼は、私の帳面を、見るのだろうか。私は、まだ、彼に見せたことがない。
火が、小さくなってきた。
目が、重かった。五日目の朝は早い。私は、椅子の背に頭を預けて、少し、目を閉じた。
「部屋へ」
と、声がした。
「眠るなら、部屋で。階段は、手を貸さない。手すりがある」
「……乗り降りの例外規定には」
「階段は、馬車ではない」
私は、たぶん、笑った。声は出さなかった。彼が、暖炉の火を灰で覆いながら、肩を一度、上下させたのが見えた。
二階の角の部屋で、帳面を開いた。
旅の四日目。北街道。宿「三本川」。部屋、二つ。女将。
私は、癖で、こう書いた。
『女将、証人。』
書いてから、なぜ「証人」と書いたのか、自分で考えた。
私は帳簿の人間だ。帳簿には、あとで誰かに見せることになる日のことを考えて書く。それが、癖だ。誰に見せるのか。何のために。分からない。ただ、部屋が二つだったことを、女将が宿帳に書いた。それを、私も書いた。二重に記録されたことは、消えにくい。
逸脱、なし。
と、書いた。
接触は、なかった。上着も、手袋もなかった。彼は、階段で手も貸さなかった。
ただ、彼は、私の乳母の墓を調べた。私の歌の、川の名を、手紙に書いた。馬車で眠っていると思った私の歌を、目を閉じて聴いていた。
それが逸脱でないなら、私の帳面の「逸脱」の定義は、たぶん、最初から少し、間違っていた。
私は、その定義を、まだ、直さなかった。
直す日は、二年経ったら来るのだと、思っていた。
窓の外で、川の音がした。
どの川か、分からなかった。明日、彼に訊こうと思った。訊けば、答える人だ。




