第15話 五日の往復
夏のあいだ、手紙は、五日で北へ行き、五日で戻ってきた。
最初、私の手紙は三行だった。
二通目は、五行になった。台帳の継続と、逸脱なしと、それから、館の井戸が一つ枯れたので、東の井戸から水を引く工事を始めた、と書いた。なぜそれを書いたのか、分からない。彼が、川の話を書いてきたからかもしれない。
返事には、井戸の掘り方が書いてあった。
北では、井戸が枯れると、掘り直す前に、まず周りの木を見る、と。根が水を吸っている木があれば、それを切るより、井戸を三歩ずらす。木は十年かけて育ったが、井戸は三日で掘れる。だから、井戸のほうが動く。
私は、その助言を、館の井戸係に伝えた。井戸係は「北の人はそう言いますか」と言い、三歩ずらして掘った。水が出た。
三通目は、一枚になった。
小作の二軒が、境界で揉めていること。私が古い地図を出して、五十年前の測量で境界の石が動いていたことを見つけて、収めたこと。母が、湖の水音で眠れないと言うので、部屋を替えたこと。ブランシュの日傘が、二本、壊れたこと。
最後に、逸脱、なし。
彼の返事は、いつも、報告だった。
炉。鉄の色。川の水位。斜面。村の羊が三匹、狼に取られた。工長の娘が結婚した。北の鉄の値が、王都で上がった。
そして、最後に、一つ、質問があった。
いつも、一つだけ。
『あなたは、なぜ、海運新聞を読む。』
四通目の、最後の行だった。
私は、その一行を、しばらく見た。
訊かれたのは、初めてだった。彼の台帳には、たぶん、「なぜ海運。訊いていない」と書いてある。それを、彼は、五日かけて届く紙の上で、訊いた。馬車の中では訊かなかったことを。
私は、答えを書いた。
紙の上でなら、書けた。
『行きたい場所がない人間は、船の行き先を読みます。それだけです。』
五日。五日。
『では、川の名前を、三つ書いておく。
北から、ロンヌ、ヴィエ、セル。
ロンヌは鉄。ヴィエは木。セルは、村。
どれかの上流に、行きたい場所があるかもしれない。なければ、四本目を探せばいい。川は、三本と決まっているわけではない。』
私は、その三つの名を、帳面の余白に書いた。
ロンヌ。ヴィエ。セル。
地図で見たこともない川の名を、私は、書いた。書いてから、それが、二十四年で初めて、自分のために覚えた地名だと気づいた。
館では、夏が、明るく続いていた。
ロドルフとブランシュは、毎日、湖の周りを歩いた。妹の手は、彼の腕にあった。母は、テラスからそれを見て、目を細めた。父は、葡萄酒の樽を数えていた。来年、この樽の何割が自分の物になるかを、数えているように見えた。
私は、采配していた。
朝六時。厨房。庭師。洗濯場。母の窓。父の獲物。ブランシュの日傘。三本目の日傘は、私の持っていたものを渡した。妹は「お姉様のは地味ね」と言って、それでも使った。
夏の半ば、ブランシュが、玄関ホールで、マルトを見た。
マルトが、北からの手紙を、ほかの手紙と分けて、私の部屋へ運んでいるところだった。
「マルト。それ、どこから?」
「北からでございます、お嬢様」
「北。……あの、子爵様?」
「はい」
ブランシュは、私を見た。私は階段の途中にいた。
「お姉様にも、お手紙を書く人がいるのね」
と、妹は言った。
悪意はなかった。妹の言葉には、いつも、悪意がない。ただ、事実を言う。そして、妹の言う事実は、いつも、誰かの皿を少し、ずらす。
「台帳の報告です」
「たいちょう?」
「仕事の話です」
「ふうん」
妹は、それ以上、訊かなかった。訊く必要が、なかったのだと思う。妹は、私が誰かから手紙をもらう、という事実を、自分の中のどこかに置いた。どこに置いたのか、私は知らなかった。知らないものは、帳簿に書けない。
夏の終わりに、私はロドルフの書斎に行った。
「お願いが、あります」
「珍しいな。言ってみろ」
「秋に、王都へ戻ったあと、一週間、北へ行かせていただきたいのです」
「北」
「乳母の墓が、ヴェルネの近くの村にあります。秋に命日が。……一度も、行っていません。七つのときに別れて、十二のときに死にました。墓を、見ていないのです」
ロドルフは、私を見た。少しの間。
「乳母の墓を、今になって」
「今まで、行かせてもらえる立場に、いませんでした」
彼は、頷いた。事実として、受け取ったのだと思う。
「同行は」
「子爵に、お願いできれば。北街道は、彼の領地への道です」
彼は、指を組んだ。
考えている。何を考えているのか、私は知っていた。彼の帳簿の、どの欄にこれが入るのか、を。
「構わない」
と、彼は言った。
「むしろ、良い。北街道で二人が見られれば、噂が育つ。秋の社交期の前に、丁度いい」
丁度いい。
私は、頭を下げた。彼は、私の乳母の墓を、噂の肥料として承認した。それが、彼の正直さだ。隠さない。丸めない。彼は、自分が今言ったことを、たぶん、少しも悪いことだと思っていない。それは、彼の中で、筋が通っている。
「ありがとうございます」
私は、そう言った。
言ってから、書斎を出た。廊下で、少し、立ち止まった。何も、こみ上げなかった。慣れている。ただ、こみ上げないことに、初めて、少し、腹が立った。誰に、かは、分からなかった。
その夜、マルトが、私の部屋に来た。
寝支度のあとで、女中頭が奥様の部屋に来るのは、用がある時だけだ。
「奥様。北へ行かれると、伺いました」
「ええ」
「北は、秋でも、こちらの冬でございます。暖かい外套を、お作りになるべきです」
「そうね。考えます」
「夫人費で」
マルトは、そう言った。はっきりと。
「旦那様に言われる前に。……手袋のことは、屋敷の者は、皆、知っております」
私は、彼女を見た。
彼女は、頭を下げなかった。真っすぐ、私を見ていた。温度があった。この家に来て、初めて、私はそれを、はっきりと温度と呼べた。
「ありがとう、マルト」
「いえ」
彼女は、それだけ言って、出ていった。
夏の、最後の手紙が来た。
いつもの報告。炉。鉄。川。斜面。
そして、最後の一行が、いつもと違った。質問ではなかった。
『ナネットという乳母の村は、セルの川べりだ。調べた。墓は、村の教会の裏。石に、名前が彫ってある。
秋、案内する。』
私は、手紙を持ったまま、しばらく、動かなかった。
調べた。
私は、彼に、乳母の名を、一度しか言っていない。馬車の中で、一度。「ナネット」と。村の名も、墓の場所も、言っていない。知らなかったからだ。
彼は、調べた。北で、炉に火を入れて、三百本の木を植えて、羊を狼に取られながら、セルの川べりの村を一つずつ、たぶん、歩いて。
私は、便箋を出した。
返事を、書こうとした。
何を書けばいいか、分からなかった。「ありがとうございます」では、足りなかった。足りないものを書くのは、帳簿として正しくない。
結局、私は、こう書いた。
『秋、お願いします。
外套を作りました。夫人費で。初めて使いました。
逸脱、なし。
C』
逸脱なし、と書いた手が、少し、止まった。
本当に、なしだろうか。
彼は、私の乳母の墓を、調べた。それは、筋書きのどこにもない。接触ではない。上着でも、手袋でもない。でも、何かだ。何か、大きな。
私は、「なし」を消さなかった。
消せば、代わりに何と書けばいいのか、分からなかったからだ。
分からないものは、まだ、なしのままにしておく。それが、この帳面の、いまの限界だった。
封をして、親指で押した。
抽斗の木片は、まだ、何も彫られていなかった。




