第14話 妹の恋文を、私の手で
夏、モンフォール家は南の本領へ移る。
王都から馬車で二日。丘の上の館、葡萄畑、先代が造らせた小さな湖。ロドルフはそこへ、カステラン家を二週間招いた。
「義父の家を招くのは、当然だ」
彼は言った。当然、という言葉を、彼はよく使う。彼の中で筋の通っていることは、全部、当然になる。
二週間の采配は、私の仕事だった。
母は神経が弱いので北向きの部屋。窓の下に人の通らない部屋。父は狩りをしたがるが、ロドルフは狩りの話を嫌う。だから狩りは館の猟場係に任せ、ロドルフは「所用で」同行しないよう、朝の予定を組む。ブランシュは南向きの、いちばん日の入る部屋。妹の肌は、日に当たると綺麗になる。母が、そう言っていた。
食事の献立は、二週間分、私が書いた。牡蠣は、一度も入れなかった。誰も気づかなかった。
二週間は、明るかった。
館には笑い声があった。ブランシュが庭を歩き、ロドルフがその隣を歩く。妹の手が、彼の腕に置かれている。父は葡萄畑を褒め、母は湖を褒め、ロドルフは二人に葡萄酒を注ぐ。
隠していなかった。二週間、誰も、何も隠していなかった。あちら側の人たちにとって、ここは隠す場所ではなかった。
私は、隠す側でもなかった。私は、采配する側だった。
朝六時に起きて、厨房と話し、庭師と話し、洗濯場を見て、母の部屋の窓が閉まっているか確かめ、父の狩りの獲物が夕食に出るように手配し、ブランシュの日傘が玄関にあるか見る。
夜、帳簿を付ける。
その合間に、ロドルフの手紙を書く。王都から、招待状の返事の催促が、南まで追いかけてくる。
マルトは、館まで一緒に来ていた。
彼女は、以前とは違う目で、庭を歩く二人を見ていた。私は、それに気づかないふりをした。女中頭が主人を見る目の温度は、私の帳簿の欄にない。
十日目の午後、ブランシュが私の部屋に来た。
ノックはしなかった。妹は、私の部屋のドアをノックしたことがない。実家でも、ここでも。
「お姉様。お願いがあるの」
「なに」
「ロドルフ様のお誕生日、明後日でしょう。お手紙を差し上げたいの」
私は、帳簿から目を上げた。
「書けばいいでしょう」
「書けないの、私。上手く。ロドルフ様は、上手な文章がお好きでしょう。短くて、はっきりしていて――お姉様が書くような。ね、お姉様が書いて」
妹は、寝台の端に座った。私の寝台に。膝の上で、指を組んで。
「あの方の好きな言い回し、知ってるでしょう。お姉様、あの方のお手紙、ぜんぶ書いてるんだから」
知っているのか、と思った。
私が、この家で何をしているか。妹は、それを知っていた。母から聞いたのか、ロドルフから聞いたのか。知っていて、だから、頼みに来た。
断る、という選択肢が、頭の中に一秒あった。
二十四年で、たぶん、初めて、はっきりした形で。
私はその一秒を、見た。
それから、便箋を出した。
「宛名は、私が書くと字が違うから、貴女が」
「いいの。お姉様、私の字、書けるじゃない。礼状、いつも書いてくれてるでしょう」
そうだった。
私は、妹の字で、書いた。
ブランシュの字は、母より丸く、右に傾く。「し」の払いが長い。文末に、小さな花。
ロドルフの好みは、簡潔、断定、形容詞は一文に一つ。相手の功績を一つ、自分の気持ちを一つ。
私は、その二つを、合わせた。
妹が言いそうなことを、夫が読みたい形で。
『ロドルフ様
お誕生日、おめでとうございます。
この夏、湖のほとりであなたが「来年は、もっと近くで」とおっしゃったこと、毎日思い出しています。
私は待つのが下手です。でも、あなたのためなら、上手になります。
来年の今日は、この館の女主人として、あなたにこの手紙を手渡していたい。
ブランシュ』
小さな花を、一つ。
書きながら、私は自分の手を見ていた。
夫への、妹の恋文を、妹の字で書く手。
来年の今日、この館の女主人として。それは、事実だ。契約の通りだ。私が采配している厨房と洗濯場と葡萄畑は、来年、この手紙を書いた人の物になる。書いたのは私だが、書いた人は妹だ。
手は、震えていなかった。
震えていないことを確かめて、私はペンを置いた。
「わあ。お姉様、すごい。私の言いたいこと、ぜんぶ書いてある」
ブランシュは、手紙を胸に当てた。
「ありがとう、お姉様。お姉様には、何でも頼めるわ」
妹は、そう言って、私の部屋を出ていった。
ノックもなく入って、礼を言って、出ていく。二十四年、そうだった。
翌々日、朝食で、ロドルフは機嫌が良かった。
新聞を読まずに、珈琲を飲んでいた。私が座ると、彼は言った。
「ブランシュは、思ったより、文章が上手い」
私は、パンを取った。
「はい」
「短くて、はっきりしている。……君が教えたのか」
「いいえ」
嘘ではなかった。教えていない。書いたのだ。
「そうか。もともと、持っていたのだな」
彼は満足そうに珈琲を飲んだ。
私は、パンを食べた。喉は、詰まらなかった。慣れている。
その夜、私は自分の部屋で、抽斗を開けた。
ハンノキの木片を、出した。
握った。
軽い。何も彫られていない木は、軽い。
私は木片を握ったまま、便箋を一枚、出した。
誰に、何を書くつもりだったのか、ペンを取るまで、決めていなかった。
ペンを取って、分かった。
『ヴェルネ子爵 オノレ様
台帳は、不在中も継続しています。
逸脱、なし。
C』
三行。
署名は、頭文字だけにした。名前を書く手が、止まったからだ。誰の字で書けばいいのか、一瞬、分からなかった。母の字でも、妹の字でも、夫の声でもない字。そんな字を、私は、持っているのだろうか。
持っているかどうか分からないものは、書けない。だから、Cとだけ書いた。
封は、蝋を垂らして、親指で押した。
印がないからだ。木片は、まだ、何も彫られていない。
北まで、五日。
返事が来るなら、十日後。
十日後、返事が来た。
夕方、マルトが、他の手紙と分けて、それだけを私に持ってきた。「北から」と、小さく言って。
宛名は、『クレマンス・ド・モンフォール侯爵夫人』。
大きな字だった。工長の手紙ほどではないが、王都の男の字ではない。木と鉄を持つ手の字だ。
『侯爵夫人
炉に、火を入れた。三日で、鉄が出た。去年より、色が良い。
東の斜面は持った。西の斜面は、少し崩れた。ハンノキの若木を、三百本、植えた。十年後に、斜面になる。
川は、下がった。
台帳、了解。
こちらも、継続している。逸脱、なし。
オノレ・ド・ヴェルネ』
私は、その手紙を、三度読んだ。
三度目に、最後の行の「なし」を、指で触った。インクは、乾いていた。当然だ。五日、経っている。
こちらも、継続している。
彼の台帳のことだ。上着の内側の。私が見たことのない台帳。逸脱、なし、と彼は書いた。北で、一人で、何の逸脱があるというのだろう。それでも、彼は書いた。私が書いたから。
私は手紙を、帳面のあいだに挟んだ。
それから、気づいた。
この館で、この夏、私が受け取った手紙は、十一通ある。母から二通、実家の執事から三通、王都の仕立屋から一通、ルネから四通。それと、これ。
私の名前が書いてあるのは、これ一通だけだった。ほかは、全部、「モンフォール侯爵夫人」か、「奥様」だった。
クレマンス。
宛名に、それがある。
私の署名には、Cしかなかったのに。
名前は、まだ、宛名にしかない。
私はそのことを、帳面には書かなかった。欄がなかった。欄がないものが、また一つ増えた。
ただ、今夜は、それが、そんなに困ったことだとは、思わなかった。




