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愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました  作者: 星舟能空


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第13話 印材

 北から、手紙が来た。

 私にではない。子爵に。彼はそれを、日曜の公園で、歩きながら私に見せた。ヴェルネの製鉄所の工長からだ。字が大きく、綴りが二つ間違っている。


『雪が解け始めた。川が上がっている。東の斜面は持った。炉に火を入れるのは、子爵が戻ってから。』


「戻らなければならない」


 と、彼は言った。


「炉に火を入れるのは、俺がやると決めている。父が死んだ年から」

「いつ」

「来週」


 池の氷は、もう無かった。鴨は、氷の縁を叩く必要がなくなって、池の真ん中で浮いていた。栗売りの露店は、片づけられていた。代わりに、花売りが出ていた。春の、名前の分からない、黄色い花。


「秋には戻る」


 と、彼は続けた。


「彼が、そう言っている。噂を冷まさないように、社交期が始まる前に戻れ、と。借金の免除の条件だ」

「……はい」

「彼のためではない」


 彼は、前を見て歩いていた。私の歩幅に合わせた速さで。


「戻るのは、彼のためではない。それだけは、言っておく」


 私は、頷いた。

 何のために戻るのか、と訊かなかった。訊けば、彼は答える。北の男は、訊かれれば、答える。だから、訊かなかった。


 池を、半周した。


「一つ、訊いていいか」

「はい」

「終わったら、どこへ行く」


 私は、用意していた答えを言った。


「第三区の家です。旦那様の署名があります。年金が年に金貨二百。それで――」

「それは、何処へ、だ」


 彼は、足を止めた。私も止まった。


「俺は、あなたが誰の所へ行くか、とも、どの家に住むか、とも、訊いていない。あなたは、どこへ行きたい、と訊いている」


 私は、彼を見た。

 彼は、私を見ていた。池でも、花売りでも、鴨でもなく。


 答えようとした。

 口を開けた。


 何も、出てこなかった。


 実家には、戻らない。それは言える。でも、それは、行かない場所だ。

 第三区の家。それは、行く場所だ。行きたい場所ではない。契約に書いてある場所だ。

 行きたい場所。

 その言葉を、私は二十四年間、自分に向けて使ったことがなかった。妹が行きたい舞踏会、母が行きたい温泉、父が行きたい狩り場。行きたい、は、いつも、他の人の動詞だった。私は、その人たちを、そこへ行かせる側だった。招待状を書き、馬車を手配し、留守の家を回す側。


「……分かりません」


 と、私は言った。

 正直に。彼の前では、それしか言えなかった。演じない人の前で、演じるのは、難しい。


 彼は、頷いた。責めなかった。


「北の男は、行きたい場所を訊かれたら、川の名前で答える」

「川の」

「ヴェルネには、川が三本ある。どの川の上流へ行きたいか。それで、その男が何を欲しがっているか、だいたい分かる。狩りなら東の川。木なら西。鉄なら北」

「私は、川を知りません」

「知らなくていい。……ただ、二年で出ていく、と決めた人間が、出ていく先を決めていないのは、良くない。それは、彼の筋書きの中に、あなたが自分の場所を持っていない、ということだ」


 私は、何も言えなかった。

 彼は、上着の内側に手を入れた。


 出てきたのは、木片だった。

 小さな、円柱形の木。長さは指二本分、太さは親指ほど。淡い色で、木目が細かい。表面が、丁寧に磨かれている。片方の端が平らで、何も彫られていない。


「ハンノキだ」


 と、彼は言った。


「印材に。まだ、何も彫っていない」


 私は、それを見た。受け取らなかった。受け取れなかった。


「……印章、ですか」

「あなたは、自分の印を持っていない」


 彼は、静かに言った。


「初夜の紙に、親指で封をしたと、彼から聞いた。あの男は、それを『合理的だ』と言った。俺は、そうは思わなかった。侯爵夫人が、自分の印を一つも持っていない。それは、合理的ではない。ただ、無い、というだけだ」


 私は、木片を見ていた。

 父の印章。母の印章。妹の印章。夫の印章。私はそれを、全部使ってきた。父の名で借金の返済猶予を頼み、母の名で茶会を断り、妹の名で礼状を書き、夫の名で招待を受けた。封蝋に押した印の数は、たぶん、千を超える。

 全部、他人の印だった。


「自分の印が要る日のために」


 彼は、木片を、私の手のそばに持ってきた。触れなかった。手袋の指先の、一寸手前で止めた。


「持っていてくれ。彫るのは、あなたが決めたときでいい。何を彫るかも」

「……逸脱です」

「四件目だ」


 私は、顔を上げた。


「数えていらしたのですか」

「俺も、台帳を付けている」


 彼は、それだけ言った。

 どんな台帳なのか、何を書いているのか、訊かなかった。訊けば、答える。だから、訊かなかった。ただ、その人が、上着の内側に、私の帳面と対になる何かを持っていることを、私は知った。


 私は、木片を受け取った。

 軽かった。上着より、毛布より、手袋より、栗より。何も彫られていない木は、たぶん、この世でいちばん軽い物の一つだ。


「ありがとうございます」


 と、私は言った。

 彼は「うん」と言った。北の人間の「うん」は、王都の「どうぞ」より短くて、長い。


 屋敷に戻ると、ロドルフが玄関にいた。珍しい。彼は子爵を書斎に呼び、私は呼ばれなかった。

 扉の隙間から、声が聞こえた。私は聞くつもりで聞いたのではない。玄関ホールで、ジョゼットに外套を渡していただけだ。


「秋には戻れ。社交期の前に。噂が冷める」

「戻る」

「借金の件は、約束通りだ。今年の分、百を免除する。文書にしてある」

「……いらん」

「何」

「免除は、いらない。年三百、これまで通り返す。二年経ったら、一括で残りを返す」

「馬鹿な。八年かかる額だぞ」

「炉が、去年から回っている。北の鉄は、今年、値が上がる。返せる」

「なぜ、免除を断る」


 少し、間があった。


「あの人と人前に出て、金をもらう。それは、俺の中で、合わない」


 合わない。

 私はその言葉を、玄関ホールで聞いた。帳簿の言葉だ。私の言葉だ。彼はそれを、借金について使った。


 ロドルフが何と答えたか、聞こえなかった。扉が閉まったからだ。


 その夜、私は、この家の印章を数えた。

 数えると、落ち着く。


 ロドルフの印は、三つ。モンフォール家の紋の印。彼個人の印。評議会の書類用の、小さい印。

 マルトが家政用に使う、家の印。一つ。

 ルネが公文書の封に使う、秘書印。一つ。

 合わせて、五つ。

 この家には、五つの印がある。私は、どれも、この七か月で使った。ロドルフの個人印は、二百通の手紙に。家の印は、月払いの給料台帳に。


 実家に、三つ。父の、母の、妹の。私は、それも全部、使った。


 合わせて、八つ。

 私が使ってきた印は、八つある。

 私の物は、机の抽斗に、何も彫られていない木片が、一つ。


 私は抽斗を開けて、木片を見た。

 閉めた。

 開けた。もう一度見た。


 行きたい場所。

 私は寝台に入る前に、机の上の海運新聞を取った。北の港の、船の出入りの欄。私は、これを、結婚する前から読んでいる。理由を訊かれたことは、一度もない。子爵も、訊かなかった。彼の台帳には、たぶん、「なぜ海運。訊いていない」と書いてある。そういう人だ。

 理由は、簡単だった。

 行きたい場所がない人間は、船の行き先を読む。それだけだ。


 私は新聞を置いて、枕を抱えた。

 抽斗の中の、木片のことを考えた。

 何を彫るか。

 分からなかった。ただ、彫る日のことを考えるのが、初めて、少しだけ、嫌ではなかった。


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