第8章:負傷した夫の仮面
#R15 #サイコスリラー #ヤンデレ #執着 #共依存 #マウンテン・スリラー #因果応報
長野県警の救助ヘリのプロペラ音が耳を弄するように激しさを増し、山頂の雪と霧を巻き上げて渦を作っていた。僕に残された時間は三分もない。
僕は朱里を見つめた。彼女の瞳に宿る希望はあまりにも眩しく、そして吐き気がするほど忌まわしかった。
「これで終わりだと思ったかい、朱里ちゃん?」僕は穏やかに微笑んで囁いた。
僕は逃げなかった。それどころか、僕は自分の短刀を手に取り、計算された素早い動作で自らの腕を何度も切り刻んだ。かすり傷ではない。血がジャケットと手を赤く染め上げるのに十分な深さの傷だ。その後、僕は服の襟を破り、髪を掻き乱した。まるで死闘を演じ終えたばかりの男に見えるように。
「え、江戸さん? 何をしているの……?」朱里が再び震え始めた。
僕は答えなかった。意識を失っている海斗の方へ向き直る。彼が握っていたアイスアックスを手に取り、血のついた海斗の指紋を、そこに転がっていた僕の折りたたみナイフの柄に押し付けた。最後に、僕は鎮静剤の残りの用量を朱里の首筋に注射した。救助隊が到着した時、彼女が朦朧として支離滅裂なことしか喋れないようにするために。
「覚えておけ、朱里。世間の目には、僕こそが君の英雄だ」
ヘリから二人の救助隊員がロープで降下してきた。彼らが岩場に着陸した時、目にしたのは悲劇的な光景だった。血まみれになった一人の男(僕)が、重傷を負った妻を抱きしめ、激しく泣き叫んでいる姿だ。
「助けてください! 助けて!」僕は悲しみの芝居で声を枯らして叫んだ。「あの男が……あのオレンジのジャケットの男が、狂ったんだ! 登山道で僕たちを襲ったんです! 妻を乱暴しようとして、穴に突き落としたんだ!」
隊員たちは絶句した。彼らの目には、アイスアックスを手に倒れている海斗と、深く傷つきながらも朱里を「守ろう」としている僕の姿が映っていた。
「落ち着いてください! 私たちが来ました!」隊員の一人が、僕の「襲撃」の報告を受けて安全策を講じ、まだ気絶している海斗を確保して、その手を担架に手錠で固定した。
「彼は……彼は化物よ……江戸さん……」朱里が喋ろうとするが、注射したばかりの薬のせいで、その声は弱々しく、うわ言のように響いた。「彼が……やったの……」
救護班が朱里を診察する。「奥さん、ひどいショック状態と低体温症の影響が出ています。今は喋らないで。すぐに病院へ運びますから」
「見てください!」僕は画面の割れた佐藤のスマートフォンを隊員に見せた。「彼(海斗)は妻のスマホを奪って、僕たちを強請ろうとしたんです! 下からずっと僕たちをつけていたんだ!」
僕の操作は完璧だった。目撃者のいないソロクライマーである海斗のアイデンティティを、身代わり(スケープゴート)として利用したのだ。僕は朱里の正当な夫であり、同じ「犬神」という姓を持っている。警察は本能的に僕の側の話を信じるだろう。
ヘリに引き上げられる際、僕は朱里の担架の隣に座った。隊員たちが同情の眼差しを向ける中、僕は彼女の手を固く握りしめた。
「もうすべて終わったよ、朱里ちゃん。君はもう安全だ」彼女の耳元で、彼女だけに聞こえるほどの微声で囁く。「今や日本中が、影山海斗を凶悪犯だと知ることになる。そして君は……僕と一緒に家に帰るんだ。僕たちの暗いクローゼットの中へ、永遠にね」
朱里はただ涙を流し、遠ざかっていくアルプスの空を見つめることしかできなかった。彼女はこのヘリが自由への逃走路ではなく、自分を再びサイコパスの巣窟へと連れ戻す「空飛ぶ鉄格子」であることに気づいたのだ。
希望はただ死んだのではない。捻じ曲げられた真実によって、今、惨殺されたのだ。




