表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/18

第9章:硝子越しの声

#R15 #サイコスリラー #ヤンデレ #執着 #共依存 #マウンテン・スリラー #因果応報

松本市、信州大学医学部附属病院。四階の警備は厳重を極めていた。廊下の一角では、肩に包帯を巻いた犬神江戸が、妻を救った勇気ある行動を称える記者たちに囲まれていた。その反対側、警察が監視する病室では、影山海斗が鉄製のベッドに両手を縛り付けられた状態で横たわっていた。


海斗は全身を突き刺すような激痛と共に目を覚ました。しかし、それ以上に彼を打ちのめしたのは、部屋の隅に吊るされたテレビから流れるニュースの言葉だった。


「アルプスの英雄:犬神江戸さん、正体不明の登山客の襲撃から妻を守り抜く」


「嘘だ……」海斗は咳き込んだ。喉の奥にはまだ乾いた血の味が残っている。「そんな……話じゃ、ない……」


中年の刑事が病室に入ってくると、蔑むような視線を海斗に向けた。「影山くん、犬神さんを傷つけた刃物から君の指紋が出た。君が転落した現場からは、犬神夫人のスマートフォンも見つかっている。これ以上、何を否定するつもりだ?」


「突き落としたのは奴だ! 妻を痛めつけていたのも奴なんだ!」海斗は声を枯らして叫んだ。「あの女性を調べてくれ! 朱里さんの背中を、手を! 彼女は縛られていたんだ!」


「犬神夫人はすでに供述を終えている」刑事は冷淡に言葉を遮った。「君がお金と宝飾品を目当てに襲ってきたと言っているよ。彼女は深いトラウマで支離滅裂なことも口にしているが、江戸さんが救世主であることは認めている」


海斗は凍り付いた。彼は知らなかった。江戸が薬物の影響下にある朱里の耳元で、「本当のことを言えば、手術台の上の海斗を確実に殺す」と囁いていたことを。朱里は警察の前で、ただ頷くしかなかったのだ。


海斗はある事実に気づいた。江戸は朱里の肉体だけでなく、この国の法的なナラティブ(物語)さえも支配しているのだと。


その夜、監視の目がわずかに緩んだ隙に、海斗の病室のドアが開いた。入ってきたのは看護師ではなく、江戸だった。彼は整った病衣を纏い、極めて理知的な佇まいを見せていた。


「やあ、影山くん。死なないでいてくれてありがとう」江戸は海斗の枕元の椅子に腰かけ、旧友に対するような親しげな微笑を浮かべた。


「貴様……化物め……」海斗が低く唸る。手を動かそうとしたが、手錠が硬い金属音を立てるだけだった。


「影山の血というのは実にしぶといね。だが、君はその血を他人のために使い間違えた」江戸は身を乗り出し、その声は悪魔の囁きのように低くなった。「君のために最高の弁護士を用意しておいたよ。釈放するためじゃない、君を『心神喪失』にするためだ。君は北海道の僻地にある精神病院へ送られる。そこでは誰も、君の言う『サイコパスの夫』の話など聞きはしないだろう」


江戸はポケットから一枚の写真を取り出した。隣の病室で眠る朱里の写真だ。ギプスに包まれた彼女の手を、江戸の手が強く握りしめている。


「彼女は僕のものだ、海斗。今も、明日も、永遠にね。僕たちの愛の物語を完成させる『悪役』になってくれて感謝しているよ」


江戸は立ち上がり、身なりを整えると、ナースコールを押し下げた。「看護師さん! 助けてください! 患者がまた暴れだした! 妄想の発作を起こしているようです!」


海斗はあらん限りの力で叫び、アルプスの霧の裏側に隠された真実を世界に伝えようとした。しかし、その叫び声こそが、高所からの転落により精神が不安定になったという医学的証拠として扱われていく。


ドアの小さな硝子窓越しに、海斗は江戸が礼儀正しく手を振って去っていくのを見た。海斗の希望は粉々に砕け散った。彼は今、奈落よりも深い檻に閉じ込められたのだ。世界からの「不信」という名の檻に。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ