第6話:霧の中の偽りの光
#R15 #サイコスリラー #ヤンデレ #執着 #共依存 #マウンテン・スリラー #因果応報
その朝、嵐はわずかに収まったが、大キレットの稜線には死装束のような白い霧が垂れこめていた。僕は朱里を背負い、彼女が滑り落ちないよう登山用ザックのストラップとロープでその体を固定した。彼女はもう口をきかなかった。瞳は空虚で、唇はチアノーゼで青ざめ、縛られた両手は僕の肩の上で力なく垂れ下がっている。
突然、巨大な岩の曲がり角から、金属の触れ合う音と規則正しい足音が聞こえてきた。
「おーい! 誰かいるのか?」
鮮やかなオレンジ色のジャケットを着た若い男が現れた。彼は屈強な体つきで、プロ仕様の登山装備を身に着けていた。胸元には大学の山岳部のバッジが光っている。ザックのネームタグには――影山海斗、と記されていた。
「ああ、よかった! 嵐の後でこのルートに踏み込んでいるのは、自分一人だけかと思っていたよ」海斗は満面の笑みで言った。しかし、朱里の惨状を目にした瞬間、その笑みは消え失せた。「おい……奥さんは大丈夫か? ひどい状態じゃないか!」
僕は、これ以上ないほど沈痛な表情を演じて見せた。「昨日の午後に滑落したんだ。足が折れている。近くの山小屋まで運ぼうとしているんだが、電波が完全に死んでいてね」
朱里がゆっくりと顔を上げた。死んでいたはずの彼女の瞳が、海斗を見た瞬間に突如として光を宿した。希望。それは僕が人間の中で最も忌み嫌うものだ。
「たす……けて……」朱里が枯れた声で囁いた。ほとんど聞こえないほどの微声だったが、海斗の耳には届いた。
「今、何か言ったか?」海斗が一歩近づく。その表情に警戒の色が混じった。彼は、昨夜僕が縛り上げたロープのせいで、青紫に鬱血した朱里の手首を凝視した。「待て、どうして彼女の手が……」
「ショック状態なんだ」僕は穏やかだが冷徹な微笑を浮かべ、即座に言葉を遮った。「痛みで錯乱して、自分を傷つけようとするんだよ。滑落の危険があるから、やむを得ず固定しているんだ」
海斗は疑念を抱いたようだった。彼は馬鹿ではない。視線は朱里の無惨な足から、瞬き一つしない僕の瞳へと移った。「いいか、僕のザックには衛星無線がある。今すぐ救助ヘリを呼べる。彼女を一度降ろしてくれ。僕が傷を確認する」
「それはいい名案だね、影山くん」僕は優しく答えた。ゆっくりと朱里を平らな岩の上に降ろす。
朱里は残された力を振り絞り、海斗のジャケットの端を掴んだ。「逃げて……彼は……怪……物……」彼女の鳴咽が漏れた。
海斗は戦慄した。彼は一歩後退し、腰のベルトにある通信機に手を伸ばした。「ここで何が起きているんだ? お前たちは一体何者なんだ!」
「ただの家族の用事を済ませているだけだよ、影山くん」僕は手袋を脱ぎながら言った。そして、昨日朱里が僕を襲うのに使ったアイスピックを取り出した。
「動くな! 通報するぞ!」海斗は叫び、無線機を掴もうと距離を取ろうとした。
しかし、このような狭い稜線では、速度こそがすべてだ。海斗がコールボタンを押すよりも早く、僕は彼が予想だにしなかった俊敏さで跳躍した。僕は彼を刺さなかった。ただ、朝の氷で滑りやすくなった絶壁の縁にある、彼の踏み場を蹴り飛ばしただけだ。
「な、に――!」
海斗はバランスを崩した。重いザックが仇となり、彼の体は後ろへと引っ張られた。僕は彼のジャケットの襟を掴み、恐怖に染まったその瞳を真正面から見つめた。
「助けを申し出てくれてありがとう、影山くん」僕は彼の顔のすぐ傍で囁いた。「でもこの山で、朱里を救っていい人間は一人しかいない。そして、それは君じゃないんだ」
僕は掴んでいた手を離した。
「嫌あああああ!」
海斗の体が落下し、数百メートル下の鋭い岩肌に叩きつけられ、北アルプスの永劫の霧に飲み込まれていくのを見て、朱里はヒステリックに絶叫した。彼の衛星無線機は、崖の縁で粉々に砕け散った。
僕は岩の上で激しく震え、蹲っている朱里を振り返った。彼女の希望は、今、見知らぬ男と共に死んだのだ。
「見たかい、朱里ちゃん? これで本当に二人きりだ」僕は彼女の濡れた頬を撫でながら言った。「僕たちを引き離そうとする奴は……みんなあんな風に奈落の底へ行くんだ。君も次に行きたいかい? それとも、また僕に背負われたい?」
朱里はただ声もなく咆哮し、絶望的な嗚咽を漏らした。その音が、僕の乾きをこの上なく満たしてくれた。




