第14章:ブレーカーと雪上の足音
#R15 #サイコスリラー #ヤンデレ #執着 #共依存 #マウンテン・スリラー #因果応報
暗闇は僕の古い友人だった。だが今夜、犬神家の屋敷を包む闇はどこか違っていた。それは、飢えていた。
カチッ。
たった一度の小さな音だったが、その衝撃で心臓が胃のあたりまで落ちていくのを感じた。広間のすべての明かりが一瞬にして消え去ったのだ。脱走のニュースを報じていたテレビは沈黙し、外の吹雪の騒音よりも遥かに痛烈な静寂が訪れた。
「朱里? ふざけるのはやめろ!」僕は叫び、冷たい木の壁を手探りで探った。
ポケットに手を突っ込み、スマートフォンを取り出す。懐中電灯。光が必要だった。だが、スマートフォンの小さな明かりが灯った瞬間、僕は息を呑んだ。廊下の突き当たりにあるメインの配電盤の前で、一つの人影が静止していた。
彼は車椅子には座っていなかった。背が高く、肩幅は広いが痩せこけており、泥と凍りついた血で汚れた白い病衣を纏っていた。
「影山……海斗……?」僕の声は震え、問いかけというよりは喘ぎ声のようだった。
人影がこちらを振り向いた。ライトの光が彼の顔を捉える。それは北アルプスの奈落の底で砕け散ったはずの顔だった。だが、彼は今、飢えた狼のような瞳をギラつかせて僕の前に立っている。その手には巨大なペンチが握られ、切断された電線が垂れ下がっていた。
「江戸さん」彼の声は、岩と氷が擦れ合うような掠れた響きだった。「君の持ち物を返しに来たよ」
彼は僕に向かって何かを投げつけた。小さな金属が、高い音を立てて板張りの床に転がった。山で朱里を拘束するために使った、僕のカラビナだ。
「嘘だ! お前は死んでいるはずだ!」僕はヒステリックに叫び、ジャケットのポケットから折りたたみナイフを抜き放って前方に突進した。
だが、海斗は常人のような動きは見せなかった。僕が触れるよりも早く、彼は廊下の闇の中へと消え失せた。暗闇の地形に慣れきった登山家特有の俊敏さだった。
「朱里! どこにいる?!」僕は振り返った。パニックが脳を侵食していく。
突如として、背後から冷たい手が僕の首を絞め上げた。僕はもがいたが、その男の力は尋常ではなかった。彼は僕を引きずり、縁側へと続く障子の方へ追いやった。ナイフで彼の腕を刺そうとしたが、手首を捻り上げられ、骨が砕けるような衝撃が走った。
「離せ……離してくれ!」
「しっ……。あの時の音を覚えているかい、江戸さん?」海斗が耳元で囁いた。彼の吐息からは、雪と鉄の匂いがした。「あの穴の中で、朱里の足の骨が折れた時の音だ。僕は隔離室で、毎晩あの音を聞いていた。今度は、君の声を聞かせてもらおうか」
彼は僕の体を縁側の床に叩きつけた。這い上がろうとした僕の目に、隣の部屋の闇から現れた朱里の姿が映った。彼女は海斗を助けるわけでも、僕を助けるわけでもなかった。ただそこに立ち、灯した蝋燭を手に、これまで見たこともないような恐ろしい微笑でその光景を照らしていた。
「見て、江戸兄ちゃん」朱里が優しく言った。「影山の血が、帰り道を教えてくれたのよ。そして彼は、私たちのために『婚礼の品』を持ってきてくれたわ」
海斗が闇から一歩踏み出した。その手にはピッケルが握られていた――僕が彼を突き落とした、あのピッケルだ。朱里の蝋燭の火の下で、その鋼鉄の刃が冷たく光った。
僕は縁側の隅に追い詰められた。開いた扉から雪が吹き込み始める。僕のナラティブ(物語)は完全に崩壊した。僕はもう英雄でも、夫でも、保護者でもない。自分が監獄として作り上げた屋敷の中に閉じ込められた、ただの獲物に過ぎなかった。
「やめてくれ……こんなことは……」僕は涙を流しながら懇願した。
「心配ないよ、江戸さん」海斗はピッケルを高く振り上げた。「すぐには殺さない。君をあの山へ連れ戻してあげる。君が望んでいた『血の婚礼』の儀式を、完遂させようじゃないか」




