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言の葉を、一滴。  作者: 三月 読(みつき よみ)


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7/10

第七話:深紅の憧憬と、血の香るブラッディ・メアリー

ご来店、ありがとうございます。三月 読です。

今夜の新宿は、誰かを傷つけたいという衝動が、悲鳴のように夜風に混じっています。

自分の弱さを武器にして、周囲の人々を音もなく壊していく一人の青年。

蓮が差し出す、喉を焼くほどに赤いブラッディ・メアリー。

聖者の面を被った捕食者が、自らの血塗られた本性を突きつけられた時、どのような断末魔を上げるのか。

どうぞ、最後までお見届けください。

新宿しんじゅくの夜は、食欲を加速させる。

 道行く人々は、何かに飢えた獣のような目をしている。金、名声、あるいは他人の肉体。欲望を隠すことをやめた街の熱気は、時に正気を奪うほどに濃厚だ。そのただれた空気を切り裂いて、一人の青年が『喫茶・言ノ葉』の暖簾のれんをくぐった。


カウベルが、肉を叩きつけるような、鈍く生々しい音を立てて鳴る。

 入ってきたのは、線の細い、どこか陰のある美青年――りょう

 彼はまるで自分自身の存在を呪っているかのように、肩をすぼめてカウンターへと歩み寄った。その瞳には、穏やかな日常とは無縁の、どす黒い「破壊衝動」が渦巻いている。


「……ここなら、僕の本当の飢えを満たしてくれるって聞いたんだけど。綺麗なだけのカフェメニューはいらない。僕が欲しいのは、もっと……根源的な『生』の感覚だ。喉を焼くような、熱くて赤い刺激が欲しい」


涼の声は、かすれて震えていた。だが、その言葉とは裏腹に、彼の手元からは、使い古されたナイフのような冷たく鋭利な「暴力」の臭気が漂っている。彼は自分を「繊細で傷つきやすい被害者」として扱いながら、その実、内側には誰かを徹底的に壊したいという、ゆがんだ加害の欲求を隠し持っていた。


「……いらっしゃいませ。当店にメニューはございません。お客様が今、最も必要としている毒を提供させていただきます」


涼は虚ろな瞳でれんを見つめ、力なく笑った。

「毒か……いいよ。僕はもう、自分の中の真っ黒な何かに押し潰されそうなんだ。それを外に出してくれるなら、どんな毒でも構わない」


涼が言葉を発するたび、店内の空気に、生温かい鉄の匂いと、腐りかけた花の香りが混ざり始める。蓮には見えていた。彼の足元から、黒い粘液がい出し、周囲の平穏を浸食しようとしている光景が。それは、愛されたいという願いが捻じれ、憎悪へと転換された末の「犠牲者気取りの独裁」だった。


蓮は無機質な手つきで、棚の奥から一つの小瓶を取り出した。そこには、鮮血のような赤の表ラベルに、優雅な流線体で『聖者の祈り』と記されている。

 しかし、蓮の視点だけが捉えるその裏側には、鋭い爪で引き裂かれたような文字でこう刻まれていた。


【裏:弱さを免罪符に他者を支配し、その悲鳴を糧にしようとする、潜在的な嗜虐しぎゃく性】


蓮は銀のスプーンを手に取り、その小瓶の蓋を開けた。

 瞬間、店内の空気に、強烈な野獣の体臭と、焼けた皮膚の匂いが漂い始める。蓮はスプーンの先に、脈打つ心臓のような赤黒いしずくすくい上げ、グラスに注がれた濃厚なトマトジュースの中へと落とす。


それはかつて、敬虔けいけんな信者でありながら、夜な夜な他人の不幸を祈り、最後には自分の肉を少しずつ削いで他人に食べさせたという、ある狂信者の「偽りの献身」の残滓ざんしである。


蓮は、氷を入れない常温のウォッカに、黒胡椒くろこしょうとセロリソルト、そして大量のタバスコを加え、最後の一滴まで血の香りを引き立てるようにステアした。

 供されたグラスの中身は、光を吸い込むほどに重々しく、底からは気泡が不気味に湧き上がっている。それは飲み物というより、抽出された「殺意」そのもののようだった。


「深紅のブラッディ・メアリーです。どうぞ、その混じりっけのない『欲望』を、喉の奥まで流し込んでください」


涼は、その暴力的なまでに鮮やかな赤に、恍惚こうこつとした表情を浮かべた。

「これだ……。僕の心が、これを待っていたんだ……」

 彼は震える手でグラスを掴み、その赤い液体を一気に喉へと流し込んだ。


その瞬間、彼の喉が、獲物をほふる野獣のような低いうなり声を上げた。


「――っ!? あ、あああ……ッ!!」


濃厚なトマトとスパイスの刺激は、彼の喉を通った瞬間、幾千もの針となって神経を逆撫でする、暴力的なまでの「熱」へと変貌した。副作用の始まりだ。


涼の視界から、静かな店の壁が消え去った。

 代わりに彼を包んだのは、彼が今まで「自分を傷つけた」と断じてきた人々の、絶望に満ちた叫び声だった。


赤い霧が、りょうの意識を塗り潰していく。

 耳をつんざくのは、彼がこれまで「繊細な僕を傷つけた罪人」として指弾し、精神的に追い詰めてきた者たちの慟哭どうこくだった。

 

「やめて……! 僕は悪くない、僕は傷ついただけなんだ! 悪いのはみんな、僕を理解しようとしないあいつらだ!」


涼は耳を塞いで叫んだが、赤い液体は彼の肺に、脳に、細胞の一つ一つにまで浸食し、隠していた「真実」を強制的に再生させる。

 彼が泣き真似をして他人の同情を引いた瞬間。自分の弱さを盾にして、友人や恋人に過度な罪悪感を植え付け、意のままに操っていた瞬間。彼の指先からしたたっていたのは、涙ではなく、他者の心から搾り取った「鮮血」だった。


「弱者は常に正しい……そう信じ込むことで、貴方は誰よりも残酷な捕食者となった」


れんの声が、赤い荒野に響き渡る。


「貴方が求めていたのは癒やしではない。自分のために誰かが身を削り、苦しみ、崩壊していく様を特等席で眺めるための、ゆがんだ支配欲だ。……この酒は、貴方がすすり続けてきた他人の命の味ですよ」


「違う……そんな、そんなはずは……っ!」


幻覚の中で、涼の手は真っ赤に染まっていた。

 彼が「優しさ」を求めて差し出した手は、いつの間にか鋭い鉤爪かぎづめとなり、大切な人たちの胸元を無慈悲にえぐっていた。鏡に映った自分の顔は、悲劇の主人公などではなく、獲物を食い散らかして満悦する、浅ましい獣のそれだった。


「……あ、ああ……アァァァッ!!」


涼はグラスを握りしめたまま、カウンターで激しく嘔吐おうとするように咳き込んだ。

 喉を焼く熱い衝撃が、彼の偽善という名のメッキをすべて剥ぎ取っていく。

 

 幻覚が霧散し、現実が戻ってきた時、涼の整った顔立ちは、醜い後悔と恐怖で激しく歪んでいた。彼は自分の手が震えているのを見つめ、そこに付着した「目に見えない血」の感触に絶望した。


「……僕は、あいつらを愛していたんじゃない。僕を愛さないあいつらが苦しむのを、心のどこかで楽しんでいたんだ。……なんて、なんて汚いんだ、僕は……」


涼は、空になったグラスのふちに残った赤い飛沫しぶきを見つめた。

 それは彼がこれまでむさぼってきた、他人の善意の残骸だった。彼はもう、その味を「甘美なもの」として享受することはできない。一生消えないスパイスの刺痛が、彼が誰かを傷つけるたびに喉を焼くようになるからだ。


涼は、胸元に飾っていた真っ赤な薔薇ばらのブローチを外した。それは彼が自らの「悲劇性」を演出するために身につけていたものだ。彼はそれを、血の海の跡のようなテーブルに置いた。


「……対価として、これを。もう、自分を飾る気力もありません」


「確かに受け取りました」


蓮がブローチを回収すると、涼はふらつく足取りで店を出て行った。

 新宿の街は相変わらず欲望に溢れているが、彼はもう、その中に紛れて獲物を探す気力さえ失っていた。彼は、自分が「ただの醜い人間」であることを突きつけられ、その重みに耐えかねるように、夜の闇へと沈んでいった。


蓮は、涼が残した薔薇のブローチを光に透かした。

 プラスチックの赤い花びらには、他人の情愛を吸い取ってきたような、不気味な光沢が宿っている。


「……弱さという盾は、時にどんな刃よりも深く人を切り裂く」


蓮はブローチを指先で握りつぶすと、そこから溢れ出した「嗜虐の残渣ざんさ」を、棚の新しい小瓶へと封印した。

 深紅の液体が揺れる瓶が、静かに棚のコレクションに加わる。

 蓮は冷たくなったグラスを片付けると、再び無表情に戻り、次の客が持ち込む「偽りの涙」を待つ準備を始めた。


(第七話 了)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

被害者という立場に安住し、そこから他者を支配する「弱者の暴力」を描きました。

蓮の毒によって自らの嗜虐性を暴かれた彼が、鏡の中の醜い自分と向き合い、その罪の重さに焼かれるまでの物語です。

カウンターに残された、偽りの象徴である赤い薔薇。

それが棚の小瓶に収まる時、この店にまた一つ、おぞましくも美しい「欲望」の標本が加わります。

また次のお話で、皆様をお待ちしております。

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