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言の葉を、一滴。  作者: 三月 読(みつき よみ)


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8/10

第八話 『殉教者の聖杯』

雨だった。


新宿の路地裏を、水の膜が覆っている。ネオンの光は水たまりに砕けて散り、誰も拾わない宝石のようにきらめいていた。


その路地の奥まった場所。ひときわ濃い闇に覆われたレンガ造りの建物がある。雨に濡れた蔦が壁面を這い、まるで呼吸するようにゆっくりと葉を揺らしていた。


カウベルが鳴る。


ずぶ濡れになったスーツ姿の女が、おぼつかない足取りで店内に踏み入った。彼女の肩に残った雨滴が、琥珀色の間接照明に照らされて粒のように輝いている。


蓮は白い指先でシェイカーを止め、静かに顔を上げた。カウベルの音はまだ耳の奥で響いている。その音は、雨に濡れた落ち葉を踏みしめたような鈍い響きだった。枯れて久しい葉が、土に還ることを拒んでいるような、未練がましい音。


入り口に立っていたのは、三十代半ばの女だった。濡れた髪が頬に張りつき、化粧はわずかに崩れている。一見して美しい部類に入る顔立ちだが、目尻には疲労の影が刻まれ、唇の端は無理に引き結ばれていた。


もっとも、蓮の興味はその程度の外面的な情報にはなかった。


彼の琥珀の瞳が、女の背後に揺らめく「ソレ」を捉える。


——枯れた花冠の幻影。


無数の花々が、編まれることなく萎れ、腐敗し、それでもなお女の肩や髪に、ぼろぼろと崩れながら絡みついている。誰に捧げられることもなかった花束。いや、正確には、無理やり誰かの手に握らせようとして、突き返された花々だ。


自己犠牲の臭いが充満している。されど、その芳香の奥に潜む、もっと生臭い匂い。傷口に膿が溜まっていくときのような、甘やかでいて不快な臭気。


蓮は感情のない琥珀の瞳で女を見据え、口を開いた。


「いらっしゃいませ」


声は水底に沈む鈴のように透明だった。


---


女——美玖は、ぼんやりと店内を見回していた。


壁一面に広がる木製の棚。そこに整然と並ぶ無数の小瓶たち。ガラス越しに揺らめく液体は、琥珀色のもの、深緑のもの、無色透明なもの、どす黒く濁ったもの——色も粘度も千差万別だ。それぞれの瓶には手書きのラベルが貼られ、『慈愛の蜜』『不滅の玉座』『永遠の旋律』『純白の正義』——どれも美しい名ばかりが並んでいる。


「メニューは」


美玖が訊ねるより早く、蓮は背を向けて棚へと歩み寄っていた。彼の指が小瓶の列の上を滑るように移動し、一点で止まる。迷いのない所作だった。まるで小瓶のほうから彼を呼んだかのように。


「必要ありません」


蓮は振り返らずに答える。漆黒のギャルソンエプロンが、店内の微かな空気の流れに揺れた。


「当店は、お客様の“業”に合わせた一杯をお出ししています」


美玖は疲れた笑みを浮かべて、カウンター席に腰を下ろした。濡れたスーツの袖が、磨き込まれた木のカウンターに湿った染みを作る。


「占いバーみたいなものかしら。最近、そういうのも多いわよね」


「いいえ」


蓮は静かに否定し、小瓶を手に取った。そこに貼られたラベルには、美しい筆記体でこう記されていた——**『殉教者の聖杯』**。


瓶の封を切り、琥珀色の液体を取り出す。蓮の手元は、まるで茶道の手前のように無駄がなく、それでいて神聖な儀式めいた静けさを纏っていた。


やがて、美玖の前に差し出されたのは、**脚の短い丸みを帯びたリキュールグラス**だった。厚みのある硝子越しに、**熟した蜂蜜を思わせる深い琥珀色**が灯りを鈍く反射している。それは聖画に描かれる後光のようでもあり、あるいは、朽ちかけた礼拝堂のステンドグラスに夕陽が差したときの色にも似ていた。


グラスを傾けると、底のほうに**ごく微量の朱い澱**が揺らめいた。混ざりきっていない血の名残のように、それは決して表面には浮かび上がらない。重力に従い、ただ底に沈殿して、訪れる者を待っている。


美玖が無意識に顔を近づけると、鼻をくすぐったのは**洋梨のコンポートと焦がしカラメルの甘やかな香り**だった。まるで幼い頃に台所で立ち込めていた、幸福の記憶そのものの匂い。しかし、鼻腔の奥に抜ける瞬間、その香りは一変する。**消毒液めいたアルコールの鋭さ**と、**乾いた鉄の匂い**——どこかで嗅いだことのある、病院の廊下か、あるいはもっと別の、痛みにまつわる場所の気配。


「——『殉教者の聖杯』」


蓮は静かに言った。


「これが、あなたのための一杯です」


「殉教者……?」


美玖は眉をひそめ、グラスと蓮を交互に見つめた。蓮の顔は相変わらず無機質で、そこからは何の感情も読み取れない。人形か、あるいは鏡か。


「ええ。あなたはこれまで、多くの人に尽くしてきた。同僚のミスをカバーし、後輩の相談に乗り、友人の愚痴を聞き、恋人の身勝手を許してきた。誰かのために何かをすることが、あなたのアイデンティティだった」


蓮の声は平坦で、そこに詰るような調子は一つもない。ただ事実を述べているだけだ。それゆえに、言葉の切れ味は刃物のように鋭かった。


「あなたはいつも“正しい”選択をしてきた。誰からも非難されないように。誰からも感謝されるように」


美玖の肩が、わずかに震えた。


「そうよ。私は、誰かのためにやってきたの。間違ってなんか……。誰だって、いい人だって言ってくれてた。それが間違ってるわけがない」


言葉は途中でかすれ、彼女は唇を噛んだ。


「けれど」


蓮は、優しく、しかし冷酷に言葉を継いだ。琥珀の瞳が、美玖の背後に揺らめく腐敗した花冠をじっと見つめている。


「あなたは今、独りだ。同僚はあなたを敬遠し、後輩は距離を置き、友人は去り、恋人には捨てられた。なぜだと思いますか」


美玖の顔から表情が消えた。


「……わからない。わからないの。私は、みんなのためにやってきたのに。身を粉にして、時間を削って、傷つくのも厭わずに。なのに、なぜ誰もわかってくれないの。なぜみんな、私から離れていくの」


最後の言葉はほとんど嗚咽だった。しかし蓮は答えない。ただ、グラスを指先でそっと押し出した。硝子の脚が木のカウンターを滑る、かすかな摩擦音だけが店内に響く。


「お召し上がりください。冷めないうちに」


---


美玖はグラスを見つめた。


蜂蜜色の液体は、静かに波紋を描いている。自分の心臓の鼓動が、手を通じて伝わっているのだろうか。これから口にするものへの恐怖と、それ以上の、得体の知れない渇きが彼女の喉を焼いていた。


一口含む。


**とろりと粘度のある甘み**が舌全体を覆った。それは**カルヴァドスの芳醇なリンゴの香り**と、**熟成された蜂蜜のリキュールの柔らかな甘さ**。鼻腔に抜ける香りは、幼い頃の台所の記憶を呼び覚ます。優しかった祖母の手。誕生日に焼いてくれたケーキ。もう戻らない、ぬくもりに満ちた時間。


——そう、私が欲しかったのは、こういうこと。


——誰かに認められること。誰かに「ありがとう」と言われること。


——誰かにとっての、かけがえのない存在になること。


——それさえあれば、私はもっと頑張れるのに。


——そうすれば、みんな私のことをわかってくれるはず。


グラスが空になる。


喉の奥を、とろりとした液体が通過していく。


瞬間、世界がひっくり返った。



**飲み干した喉の奥から、焦げたハーブの苦みと鉄錆のえぐみがせり上がってくる。** それまで舌を覆っていた蜂蜜の膜が剥がれ落ち、隠されていた本性が牙を剥く。甘やかな余韻は跡形もなく消え去り、残るのは血のような、薬のような、暴かれた傷口の味だった。


そして、幻覚が始まった。


---


「美玖さん、あの企画書、修正しておきましたよ」


若い同僚の声。美玖は振り返り、反射的に笑顔を作る。オフィスの風景。コピー機の駆動音。誰かの電話の声。


「ありがとう。でも、あそこは私がやるって言ったじゃない」


「いや、美玖さんいつも忙しそうだし、僕のほうが早く終わったんで」


「……そう。でも、やっぱり私のやり方のほうがクライアントの意向に沿ってると思うの。あなたの修正、ちょっと独りよがりな部分があるから」


言葉の途中で、景色がぐにゃりと歪んだ。


同僚の顔が、嘲笑の表情に変わる。口元は歪み、目は細められ、彼女を見下している。


——「美玖はいつも正しいよね」


——「君の『助言』ってさ、結局“私の言う通りにしろ”ってことだよね」


——「疲れるんだよ。君と話してると、こっちが間違ってる気になってくる」


——「感謝、してほしいんだろうけどさ。ぶっちゃけ、ありがた迷惑なんだよな」


「ち、違う……!」


美玖が叫んでも、幻覚は止まらない。


今度は、かつての恋人が現れた。ソファにだらしなく寝転び、スマートフォンを弄りながら美玖を見上げている。三年前に別れた男。彼女が「ダメンズ」と自嘲しながら世話を焼いていた相手。


「美玖ってさ、俺のためって言いながら、結局俺をコントロールしたいだけなんだよな」


「そんなことない! 私はただ、あなたにしっかりしてほしくて——」


「それで『私がいないとダメなんだから』って? 違うんだよ、美玖。俺はお前に必要とされたかったわけじゃない。お前に、同じ目線で愛してほしかっただけなんだ」


「同じ目線……?」


「そう。でもお前はいつも一歩上から、『私が正しく導いてあげる』って顔をする。俺は対等なパートナーが欲しかっただけで、母親なんて求めてなかった」


恋人の姿が消える。


次は、大学時代の友人。疎遠になった親友。彼女の結婚式でスピーチを頼まれ、美玖が涙ながらに友情を語った相手。式が終わったあと、なぜか招待客のグループから外され、一人でタクシーに乗った記憶。


「美玖はさ、いつも私のほうが正しいって顔をするよね」


「そんなこと……!」


「あるよ。あなたはいつも“犠牲者”でいたがる。『こんなにやってあげてるのに』って、こっちが何も頼んでないことまで勝手にやって、あとから恩を着せる。私が困ってるときも、『大変だね』じゃなくて『ほら、だから私があのとき言ったじゃない』だもんね」


「だって、実際そうだったじゃない! あなたが間違ってたから——」


「——そう。それ。それなんだよ、美玖」


友人の顔が溶け、別の顔になる。かつての上司、妹、母親。無数の顔が彼女を囲み、口々に同じ言葉を繰り返す。


「どうしてあなたは、いつも自分だけが正しいの」


「どうしてあなたは、いつも自分が可哀想なの」


「どうしてあなたは、自分が一番じゃないと気が済まないの」


「違う! 私はそんな人間じゃない! 私はただ、誰かの役に立ちたくて——」


そのとき、幻覚の中で、もう一人の美玖が現れた。


スーツを着て、涙を流し、必死に叫んでいる自分自身の姿。彼女の背後で、枯れた花冠がぼろぼろと崩れ、腐臭を放っている。


もう一人の美玖は、泣きながら笑っていた。


「——違わない。違わないんだよ、美玖」


「なにが……?」


「あんたは、認められたかっただけ。誰よりも優れていて、誰よりも正しくて、誰よりも必要とされる人間だって、認めさせたかっただけ」


「それは——」


「同僚のミスをカバーした? 違う。あんたは同僚の失敗を『待ってた』。失敗した同僚を助けるあんたは、きっと『できる女』に見えるものね」


「そんなこと、思ったことなんて——」


「あるわよ。『ほら、私がいないとダメでしょ』って、いつも思ってた。後輩が成長したら嬉しくなかった。恋人が自立したら寂しかった。友人が幸せになったら、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ面白くなかった」


「ちが……」


「違わない。あんたはね、美玖。誰かの不幸の上に、自分の正しさを築いてきたんだよ。それがあんたの、本当の姿」


幻覚の中の美玖が、ゆっくりと振り返る。その顔は涙に濡れ、化粧は崩れ、それでもなぜか、憑き物が落ちたようにすっきりとしていた。


「——それがあんたの、本当の毒」


言葉が終わるのと同時に、すべての幻影が砕け散った。



どれくらい時間が経ったのか。


美玖がようやく顔を上げると、涙と化粧でぐしゃぐしゃになった顔で、それでもどこか憑き物が落ちたような表情を浮かべていた。カウンターの上には、空になったリキュールグラスが一つ。琥珀色の液体の痕跡は、もうどこにもない。


「……これが、本当の私。『私は正しい、私は被害者、私はこんなに尽くしてる』——そうやって、ずっと自分を特別だと思おうとしてた。誰よりも優れた『いい人』でいたかっただけ。……違う、それも嘘。私はただ、誰よりも認められたかっただけ」


彼女は声を詰まらせ、それでも言葉を紡ぎ続けた。


「誰かが私を必要としてくれないと、自分に価値がないと思ってた。だから必死で、誰かの役に立とうとした。でも本当は、役に立つ相手を自分より下に見てた。『私がいないとダメな人』って思うことで、安心してた。ひどい女。本当にひどい女だわ、私」


蓮は何も答えない。ただ、無機質な美貌で空のグラスを見つめている。救いの言葉も、慰めも、説教も、この店には存在しない。あるのはただ、空になった器と、それを満たしていた毒の記憶だけ。


「……この店の、対価は」


美玖は震える手でバッグを探り、一冊の手帳を取り出した。革製の、何年も使い込まれた手帳。端は擦り切れ、ページは使い込まれて黄ばみ、それでも彼女が手放せなかったもの。中には他人のスケジュールや、相手の何気ない悪評、親切の「貸し借り」リスト、感謝されるための「やるべきこと」がびっしりと書き込まれている。彼女の人生そのものだった。


「これで、いいですか」


蓮は無言で手帳を受け取った。


白い指が革表紙に触れた瞬間、それは音もなく液体へと変わる。どろりと濁った琥珀色の液は、まるで生き物のように小瓶へと吸い込まれていった。液体の中で、何かが蠢いている。無数の花が腐敗してできた、感情の澱。


蓮は新しい小瓶を取り出し、その液体を封印する。コルク栓が沈黙のうちに押し込まれ、瓶は静かに琥珀色に輝いた。


表のラベルには、先ほど美玖に差し出したものと同じ、美しい筆記体で **『殉教者の聖杯』**。


そして蓮にしか見えない裏側に、別の名前が刻まれる。


—— **『無視されたくない道化師』** 。


棚の一角に、またひとつ、毒の小瓶が加わった。



美玖はふらつきながら立ち上がり、ドアへと向かう。スーツの裾はまだ濡れているが、足取りは来たときよりも確かだった。その背中には、もう枯れた花冠の幻影はない。腐敗した花々はすべて、あの小瓶の中に封じ込められた。


代わりに彼女の背中には、何もない空白があった。それは虚無ではなく、これから新しい何かが生まれるための、耕された土のような静けさだった。


カウベルが鳴る。


今度は、澄んだ冬の空に響く風鈴のような、清冽な音だった。


美玖の姿が路地の闇に溶ける。雨はすでにやんでいた。雲の切れ間から、この街には珍しい星が一つ、白く輝いている。


蓮はその音を背中で聞きながら、静かにカウンターを拭きはじめる。白い指が、美玖の濡れたスーツが残した染みの上を通り、すべてを無に戻していく。


店内にはまた、静寂が戻った。琥珀色の照明が、新しく加わった小瓶のラベルをそっと照らしている。『殉教者の聖杯』。表向きの美しい名は変わらずとも、その中身は確かに、先代から美玖の業へと「代替わり」していた。


蓮は顔を上げ、壁一面に広がる小瓶の棚を眺める。何百という瓶たち。それぞれが、誰かの嘘を封印している。それぞれが、誰かが生きた証でもある。彼の琥珀の瞳は、そこに映る光景をどのように見ているのか、誰にもわからない。


「——次は、どんな業が訪れるのだろう」


呟きは誰に届くでもなく、古びた梁に吸い込まれていった。


新宿の路地裏。ネオンの届かない「隙間」で、喫茶・言ノ葉は今日も、嘘に溺れた客を待っている。


壁の棚には、新たな毒が静かに息を潜めて。

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