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言の葉を、一滴。  作者: 三月 読(みつき よみ)


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第六話:追憶の断罪と、漆黒のショコラ・マティーニ

ご来店、ありがとうございます。三月 読です。

今夜の新宿は、誰かが捨て去ったはずの「過去」が、影となって忍び寄る夜です。

成功の裏側で、積み上げた罪を忘却という名の嘘で塗り固めてきた男。

蓮が差し出す、闇を溶かしたような漆黒のショコラ・マティーニ。

その甘美な苦みが、彼の脳内に封印された亡霊たちを、どのような断罪の嵐として呼び覚ますのか。

逃げ場のない夜の淵を、どうぞ最後まで見守ってください。

新宿しんじゅくの夜は、忘却の底に沈めたはずの死体を掘り起こすのが上手い。

 華やかなネオンの影で、人々は過去の過ちを塗り潰そうと酒を煽り、笑い声を上げるが、その足元には常に、清算されていない罪の泥濘ぬかるみが広がっている。逃げたつもりでいても、記憶という名の鎖は、夜の静寂に乗じて音もなく獲物の首を絞め上げるのだ。


カウベルが、重厚な鉄の扉を閉めるような、低く鈍い音を立てて鳴る。

 入ってきたのは、高級な仕立てのコートを羽織った初老の男性――剛志たけし

 一見すると成功した実業家の風格を漂わせているが、その歩調はどこか覚束おぼつかなく、その瞳は絶えず背後の「何か」を恐れるように泳いでいた。彼が席に座った瞬間、店内の空気に、古い土の匂いと、焼け焦げたゴムのような不吉な臭気が混ざり始める。


「……ここなら、静かに飲めるんだろうな。外の風が、どうにも人の囁き声のように聞こえていかん」


剛志の声は枯れ果て、肺の奥に溜まったおりを吐き出すような湿り気を帯びていた。

 店主のれんは、彼の背後にどす黒く渦巻く、何層にも重なった「欺瞞ぎまん」の影を捉えていた。かつて誰かを踏み台にし、切り捨て、その犠牲の上に築き上げた富。彼はそれを「必要な代償だった」と自分に言い聞かせてきたが、人生の終盤に至り、ついにその亡霊たちが彼を食らい尽くしに現れたのだ。


「……いらっしゃいませ。当店にメニューはございません。お客様が今、最も必要としている毒を提供させていただきます」


剛志は「毒」という言葉に、隠しきれない動揺を見せた。

「毒だと……? 縁起でもない。……私に必要なのは、すべての思考を麻痺させてくれるような、重くて、甘美な眠りだ。過去も、良心も、すべてを黒く塗り潰してくれるような一杯をな」


蓮は無機質な手つきで、棚の最上段から一つの小瓶を取り出した。そこには、真夜中の闇を溶かしたような漆黒の表ラベルに、銀の糸で刺繍されたような筆致で『安息の外套』と記されている。

 しかし、蓮の視点だけが捉えるその裏側には、鋭い爪で抉り取られたような文字でこう刻まれていた。


【裏:犯した罪を忘却という名の嘘で粉飾し、贖罪から逃避し続ける、卑屈な権力欲】


蓮はミキシンググラスに、最高級のカカオを極限まで煮詰めたリキュールと、氷のように冷たいウォッカ、そしてビターなエスプレッソを注ぎ込んだ。そこに、小瓶から粘り気のある漆黒のしずくを一滴落とす。


それはかつて、自らの栄華のために一族を裏切り、最後に孤独の中で自分の影に怯えながら発狂したという、ある略奪者の「偽りの忘却」の残滓ざんしである。


バースプーンが氷を回す、静かな、だが執拗な音が店内に響く。

 供されたカクテルは、縁まで漆黒に満たされ、表面には月明かりさえも吸い込むような、不気味なほど滑らかな光沢をたたえていた。


「漆黒のショコラ・マティーニです。どうぞ、その混じりっけのない『暗闇』を、喉の奥まで流し込んでください」


剛志は、その底知れぬ黒に魅了されたように目を細めた。

「ああ……いい色だ。これなら、何も見えなくなる……」

 彼は震える手でグラスを持ち、その重厚な液体をゆっくりと口に含んだ。


その瞬間、彼の喉元で、見えない手が爆発した。


「――っ!? ぐ、ぁっ……! 喉が……誰かに、首を絞められて……!」


甘美な眠りをもたらすはずの液体は、彼の食道を通った瞬間、冷たく硬い「鉄の鎖」へと変貌し、彼の内側から締め上げ始めた。副作用の始まりだ。


暗闇の中から、無数の「声」が湧き上がってきた。

 剛志たけしの足元から、漆黒の液体が影となって広がり、かつて彼が切り捨てた人々の顔が、泥のような水面から次々と浮かび上がる。


「忘れたとは言わせないぞ、剛志」

「あんたが捨てた夢の続きを、見せてやろうか」


それは、彼が富を得るために見捨てた親友であり、身勝手な野心のために壊したかつての家庭の姿だった。漆黒のショコラ・マティーニは、彼の脳内で「忘却」の扉を粉々に破壊し、彼が最も見たくなかった「真実の記憶」を、逃げ場のない鮮明さで再生し始めた。


「やめろ……! あれは、仕方がなかったんだ! 私が生き残るためには、ああするしかなかったんだ!」


剛志は耳を塞ぎ、のたうち回った。だが、漆黒の液体は彼の毛穴から浸透し、逃れようのない自責の念を、猛毒として全身の血管に流し込んでいく。彼の心臓が脈打つたびに、過去の悲鳴が全身を駆け巡った。


「罪とは、忘れ去ることで消えるものではありません。剛志様」


れんの、静寂を切り裂くような声が響く。


「貴方が求めた『安息』は、死者たちの口を封じるための石板に過ぎない。他人の人生を奪って手に入れた暖かさは、いつか貴方自身の魂を焼き尽くす、地獄の業火となるのです。……さあ、貴方が踏みつけてきた者たちの重みを、その身で味わいなさい」


「……あ、あああああぁぁぁ……ッ!!」


剛志は、自身の胸を掻き毟った。喉の奥からせり上がるのは、甘美なカカオの香りではなく、自らの嘘が腐敗した、言葉にならぬ懺悔ざんげの叫びだった。

 幻覚が弾け、彼が現実に戻った時、剛志はカウンターの上で激しく喘いでいた。

 かつての威厳はどこにもない。彼はただ、自らの罪の重さに耐えかねて震える、一人の無力な老人に過ぎなかった。


「……私は、自分を騙し続けてきた。あの子たちの涙も、友の裏切りも、すべて『成功』という言葉で蓋をして……。だが、この苦みこそが、私が本当に味わうべきものだったんだな」


剛志は、空になったグラスを見つめた。

 そこには、一筋の黒い筋が残っている。それは、彼が一生をかけて背負い続けなければならない、消えることのない汚点そのものに見えた。


剛志は震える手で、コートのポケットから一つの古い、錆びついた銀の鍵を取り出した。それは彼がかつて捨て去った「過去の居場所」の、唯一の形見だった。彼はそれを、カウンターの上に置いた。


「……これが、対価だ。もう、逃げるのはやめる。……今から、彼らの墓前へ向かうよ」


「確かに受け取りました」


蓮が鍵を手に取ると、剛志はよろめきながらも、自らの足でしっかりと床を踏みしめ、店を出て行った。

 新宿の夜は相変わらず冷たかったが、彼の背中は、どこか憑き物が落ちたように小さく、そして人間らしい温かさを取り戻していた。


蓮は、剛志が残した錆びた鍵を見つめた。

 彼が指先でその錆をなぞると、鍵は真っ黒な液体へと溶け落ち、その「追憶の断罪」は、棚の新しい小瓶へと封印された。


「……罪を飲み干した者にだけ、真実の夜明けが訪れる」


蓮は再び、漆黒の液体が揺れる棚を見上げ、闇に紛れてやってくる次の「罪人」を待つために、グラスを磨き始めた。


(第六話 了)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

忘却という名の自己防衛と、そこからの残酷な目覚めを描きました。

蓮の毒によって「真実」を突きつけられた男が、初めて自らの罪を認め、贖罪の第一歩を踏み出すまでの物語です。

カウンターに残された、錆びついた一本の鍵。

それが棚の小瓶に収まる時、この店にまた一つ、苦くも重厚な「人生」の標本が加わります。

また次のお話で、皆様をお待ちしております。

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