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死神夫人の五度目の結婚  作者: 鵜久森うた
第一章 死神夫人
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9/12

第九話 三人目の夫

 二月の終わり、侯爵邸の庭はまだ冬の色をしていた。


 エマはレオンの昼寝のあいだだけ、マーサに部屋を任せて外へ出た。毛布を肩にかけ、庭の隅の石の長椅子に腰を下ろす。盆の上の紅茶は、湯気を細く立てていた。


 雪はほとんど解けていて、黒い土のところどころに小さな緑が顔を出していた。空気は冷たいのに、日向だけが頬に薄くあたたかい。


 カップを両手で包むと、指先に熱がゆっくり染みていく。


(……庭で、お茶を飲むなんて)


 いつ以来だろう、と考えかけて答えはすぐに出た。

 最後に庭でお茶を飲んだのは、三人目の夫と結婚していた時だった。


◆


 三人目の夫、ローレンス卿は七十八歳だった。

心臓を患っていて、医師の診断は前の二人よりはっきりしていた。


「次の発作が命取りになるでしょう」


 縁談の席で母はその言葉を天気の話のように口にした。


 支度金は三千五百バルク。父はもう、頭を下げなかった。エマも断らなかった。断れないことを知っていたし、断る言葉は二人目の夫の時に使い切ってしまっていた。


 ローレンス家の庭には白い鉄の円卓と椅子が置かれていた。

 エマが通されたとき、ローレンスはその椅子に座っていた。膝には毛布。痩せた肩。白い眉の下の目だけが、驚くほど明るかった。


「君が噂のお嬢さんか」

「……噂、でございますか」

「うちの使用人どもが、言っておる。あの娘が嫁ぐ先では人が死ぬ、と。三人目だそうだな」


 エマの指がスカートの端を握った。

 ローレンスは声を立てて笑った。笑ってから、胸に手を当て少し息を整えた。


「死神というのならそれで結構。迎えに来た客に茶の一杯も出さんでは礼を欠く。座りなさい」


 エマは呆気にとられたまま椅子に腰を下ろした。ローレンスは自分の手でポットを傾け、エマの前にカップを置いた。その手が小さく震えていた。


「手が震えてうまく淹れられんのだがな。それでも淹れる癖が抜けんのだ」


 一口飲んだ紅茶は少し濃かった。けれど、あたたかかった。

 

「ランドルフの倅が言っておった。君は夫が死ぬのをただ待つような夫人ではないとな。まあ、難しく考えんでいい。話し相手になってくれんか」


 エマの三度目の結婚では、発作を起こさせないこと、そして他の病気を併発しないよう心がけた。

 階段を使わなくてよいように寝室を一階へ移した。塩を控え重い料理を減らし、食事を小分けにして何度かに分ける。夜は上体を少し起こして休めるよう、枕を積み直した。足のむくみを毎朝確かめ、脈を数えた。寝台の脇には、いつでも手が届くように小さな呼び鈴を置いた。


「走らないこと、急がないこと、驚かないこと」

「驚くな、と言われてもな」

「では、驚いたらすぐに座ってください。そして私を呼んでください」

「ふむ。人使いの荒い花嫁だ」


 そう言いながらも、ローレンスは言われたとおりにした。


 一日の終わりには庭に出る。円卓に紅茶を置き、日が傾くまでただ座っている。それが二人の日課になった。


 老人は、エマを孫のようにかわいがった。


「エマ坊。今日は顔色が悪いな。菓子を食え」

「ローレンス様こそ塩を控えてください」

「菓子に塩はない」

「クッキーには、入っております」


 ローレンスは渋い顔をして、それでも楽しそうに一枚を半分に割って、エマに渡した。


 夫、というより祖父のようだった。エマはそれをありがたいと思った。


 半年が過ぎた頃、エマは祖父のことを話した。杖をついて、毎朝、台所まで歩いてきた人。自分の肩が丈夫だと、笑ってくれた人。夏のあいだに亡くなったことを、誰も知らせてくれなかったこと。


 ローレンスは黙って聞いていた。それから言った。


「墓はどこだ」

「……領の外れの、小さな墓地です」

「明日、行こう」

「ローレンス様、お体に」

「ゆっくり行けばよい。馬車を、さらにゆっくり走らせればよい」


 翌日、二人は、墓の前に立った。草は伸び放題だった。エマは手で草を抜いた。ローレンスは杖にもたれて、静かに待っていた。


「おじいさま」


 エマは小さな声で呼んだ。泣かなかった。ただ、墓石の冷たさに掌を押し当てていた。

 

 ローレンスは何も言わなかった。帰りの馬車の中で、ただ一度だけ、エマの頭にそっと手を置いた。


 あるあたたかい午後、ローレンスは小さな紙袋を卓の上に置いた。


「種だ」


 袋の中には黒く小さな粒がいくつも入っていた。


「若い頃、わしは植物の学者になりたかった」


 ローレンスは庭を見ていた。


「海の向こうの、見たこともない花を集めたかった。それで研究院に行きたいと言ったのだが、父が許さなんだ。家業の船の会社を継げ、と」

「それで、お継ぎに」

「継いだ。四十年、よく働いたと思う。後悔はない」


 ローレンスは言葉を切った。


「……ただ、妻のクララを一度も、南の海岸に連れて行けなんだ。レモンの林が見たいと言っておった。来年は行こう、来年は行こう、と言いながら、とうとう行かなかった」


 風が庭の木々を揺らした。


「明日があると、思っておったのだな」


 エマは何も言えなかった。胸の奥の冷たい石が、わずかに疼いた。


「エマ坊」

「はい」

「おまえは何か、諦めたものがあるか」


 不意の問いだった。エマは紅茶のカップを見つめた。


「……分かりません」

「そうか」

「諦めたのかもしれません。でも、何を諦めたのか、もう思い出せないのです」


 ローレンスは少し黙った。それから紙袋をエマの前へ押しやった。


「これを、来年の春に蒔いてくれ。一人ではうまく育たんかもしれんが」

「ローレンス様がご自分で蒔けばいいのです」

「わしは見られんかもしれん」

「見られます」


 エマは顔を上げた。


「見ていただきます。私が、そうさせます」


 ローレンスは驚いた顔をした。それから、目尻に深い皺を寄せて笑った。


「頼もしい花嫁だな」


 それから春は三度来た。


 一度目の春に、エマは種を蒔いた。二度目の春に青い小さな花が咲いた。ローレンスは椅子に座ったまま長いあいだ、それを見ていた。「クララが好きな色だ」と言った。


 三度目の春に、花は庭いっぱいに広がった。


 その日も、二人は円卓の紅茶を前にしていた。ローレンスはここ数日、眠そうな顔をしていた。エマは毎朝、脈を数えていた。少し弱くなっていることは、気づいていた。だから、その午後、庭に連れ出すことを少し迷った。


「大丈夫だ。今日は、外がよい」


 ローレンスが言った。エマは頷いて、毛布を増やした。


 円卓に紅茶が置かれた。日差しはやわらかく、青い花が風に揺れていた。


「……エマ坊」

「はい」

「今日の茶は、うまいな」

「そうですか。いつもと同じ葉ですよ」

「同じでも、うまい」


 ローレンスは目を閉じた。口元がゆるんでいた。


「花が、きれいだ。……クララにも、見せてやりたかった」


 声がだんだん、遠くなった。エマは、ローレンスの手を取った。指はあたたかかった。


 脈はゆっくりと、ゆっくりと、遠のいていった。


 エマは、数えていた。数えながら、手を離さなかった。やがて、数えるものが、なくなった。


 庭には、風の音と、花の揺れる音だけがあった。紅茶は、まだ、うっすらと湯気を立てていた。


 エマはしばらく、そのまま座っていた。それから静かにローレンス手を毛布の上に戻し、姿勢を整え、目を閉じさせ、使用人を呼ぶ鈴を鳴らした。


 ふと、自分の手を見た。


――震えていなかった。


(……いつから)


 三度目の看取りだった。エマの手はどこへ何をすればよいか、もう知っていた。それが悲しかった。悲しいのに涙は少し遅れてやってきた。


 葬儀のあと、三週間かけて後片付けをして実家に戻った。


 父も母も黒い服を着ていたけれど、玄関の扉をくぐったとき、母はエマの顔より先に手元を見た。


「遺産は」


 遺産は少しの年金だけだった。エマは年金の証書を、黙って母に渡した。母の顔が安堵したように緩んだ。


「ちょうどよかったわ」

「……え」

「次の話が、もう決まっているの」


 エマは、聞き返せなかった。


「お母様、喪がまだ明けておりません」

「今で三週間でしょう。嫁ぐ頃には喪は明けています」


 母はにっこりと優しい笑顔を見せた。それが怖かった。


「あなたも慣れたでしょう。大丈夫よ。今度の方はお若いそうだから」


 エマは玄関に立ったまま、動けなかった。


――悲しむ時間をください。


 そう言うべきだったのかもしれない。けれど、言ったところで何が変わるのだろう。母の目の中には、もうエマの顔は映っていなかった。


(私は、お金を持ち帰る人間なのだ)


 その考えが静かに胸に落ちた。それは、怒りでも悲しみでもなく、ただ、事実としてそこにあった。


 エマは微笑んだ。慣れた微笑みだった。


「……承知いたしました」


 その夜、エマはトランクの底に青い花の種を小さな袋に入れて、しまった。


◆


 エマは目を開けた。


 侯爵邸の庭だった。紅茶はすっかり冷めていた。


 あの袋は、今も自分の古いトランクの底にある。四人目の夫のもとへ行く前も、今も、一度も蒔いたことはなかった。


(……春になったら)


 エマは冷えたカップを盆に戻した。


 領地の庭は日当たりがよいと聞いている。レオンと一緒に蒔けるかもしれない。


 そう思って、自分で少し驚いた。未来のことを考えた。それも、花の話を。


 遠くで窓の開く音がした。マーサが二階から手を振っていた。


「奥様。坊ちゃまがお目覚めです」

「ただいま参ります」


 エマは毛布を畳み、立ち上がった。


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