第九話 三人目の夫
二月の終わり、侯爵邸の庭はまだ冬の色をしていた。
エマはレオンの昼寝のあいだだけ、マーサに部屋を任せて外へ出た。毛布を肩にかけ、庭の隅の石の長椅子に腰を下ろす。盆の上の紅茶は、湯気を細く立てていた。
雪はほとんど解けていて、黒い土のところどころに小さな緑が顔を出していた。空気は冷たいのに、日向だけが頬に薄くあたたかい。
カップを両手で包むと、指先に熱がゆっくり染みていく。
(……庭で、お茶を飲むなんて)
いつ以来だろう、と考えかけて答えはすぐに出た。
最後に庭でお茶を飲んだのは、三人目の夫と結婚していた時だった。
◆
三人目の夫、ローレンス卿は七十八歳だった。
心臓を患っていて、医師の診断は前の二人よりはっきりしていた。
「次の発作が命取りになるでしょう」
縁談の席で母はその言葉を天気の話のように口にした。
支度金は三千五百バルク。父はもう、頭を下げなかった。エマも断らなかった。断れないことを知っていたし、断る言葉は二人目の夫の時に使い切ってしまっていた。
ローレンス家の庭には白い鉄の円卓と椅子が置かれていた。
エマが通されたとき、ローレンスはその椅子に座っていた。膝には毛布。痩せた肩。白い眉の下の目だけが、驚くほど明るかった。
「君が噂のお嬢さんか」
「……噂、でございますか」
「うちの使用人どもが、言っておる。あの娘が嫁ぐ先では人が死ぬ、と。三人目だそうだな」
エマの指がスカートの端を握った。
ローレンスは声を立てて笑った。笑ってから、胸に手を当て少し息を整えた。
「死神というのならそれで結構。迎えに来た客に茶の一杯も出さんでは礼を欠く。座りなさい」
エマは呆気にとられたまま椅子に腰を下ろした。ローレンスは自分の手でポットを傾け、エマの前にカップを置いた。その手が小さく震えていた。
「手が震えてうまく淹れられんのだがな。それでも淹れる癖が抜けんのだ」
一口飲んだ紅茶は少し濃かった。けれど、あたたかかった。
「ランドルフの倅が言っておった。君は夫が死ぬのをただ待つような夫人ではないとな。まあ、難しく考えんでいい。話し相手になってくれんか」
エマの三度目の結婚では、発作を起こさせないこと、そして他の病気を併発しないよう心がけた。
階段を使わなくてよいように寝室を一階へ移した。塩を控え重い料理を減らし、食事を小分けにして何度かに分ける。夜は上体を少し起こして休めるよう、枕を積み直した。足のむくみを毎朝確かめ、脈を数えた。寝台の脇には、いつでも手が届くように小さな呼び鈴を置いた。
「走らないこと、急がないこと、驚かないこと」
「驚くな、と言われてもな」
「では、驚いたらすぐに座ってください。そして私を呼んでください」
「ふむ。人使いの荒い花嫁だ」
そう言いながらも、ローレンスは言われたとおりにした。
一日の終わりには庭に出る。円卓に紅茶を置き、日が傾くまでただ座っている。それが二人の日課になった。
老人は、エマを孫のようにかわいがった。
「エマ坊。今日は顔色が悪いな。菓子を食え」
「ローレンス様こそ塩を控えてください」
「菓子に塩はない」
「クッキーには、入っております」
ローレンスは渋い顔をして、それでも楽しそうに一枚を半分に割って、エマに渡した。
夫、というより祖父のようだった。エマはそれをありがたいと思った。
半年が過ぎた頃、エマは祖父のことを話した。杖をついて、毎朝、台所まで歩いてきた人。自分の肩が丈夫だと、笑ってくれた人。夏のあいだに亡くなったことを、誰も知らせてくれなかったこと。
ローレンスは黙って聞いていた。それから言った。
「墓はどこだ」
「……領の外れの、小さな墓地です」
「明日、行こう」
「ローレンス様、お体に」
「ゆっくり行けばよい。馬車を、さらにゆっくり走らせればよい」
翌日、二人は、墓の前に立った。草は伸び放題だった。エマは手で草を抜いた。ローレンスは杖にもたれて、静かに待っていた。
「おじいさま」
エマは小さな声で呼んだ。泣かなかった。ただ、墓石の冷たさに掌を押し当てていた。
ローレンスは何も言わなかった。帰りの馬車の中で、ただ一度だけ、エマの頭にそっと手を置いた。
あるあたたかい午後、ローレンスは小さな紙袋を卓の上に置いた。
「種だ」
袋の中には黒く小さな粒がいくつも入っていた。
「若い頃、わしは植物の学者になりたかった」
ローレンスは庭を見ていた。
「海の向こうの、見たこともない花を集めたかった。それで研究院に行きたいと言ったのだが、父が許さなんだ。家業の船の会社を継げ、と」
「それで、お継ぎに」
「継いだ。四十年、よく働いたと思う。後悔はない」
ローレンスは言葉を切った。
「……ただ、妻のクララを一度も、南の海岸に連れて行けなんだ。レモンの林が見たいと言っておった。来年は行こう、来年は行こう、と言いながら、とうとう行かなかった」
風が庭の木々を揺らした。
「明日があると、思っておったのだな」
エマは何も言えなかった。胸の奥の冷たい石が、わずかに疼いた。
「エマ坊」
「はい」
「おまえは何か、諦めたものがあるか」
不意の問いだった。エマは紅茶のカップを見つめた。
「……分かりません」
「そうか」
「諦めたのかもしれません。でも、何を諦めたのか、もう思い出せないのです」
ローレンスは少し黙った。それから紙袋をエマの前へ押しやった。
「これを、来年の春に蒔いてくれ。一人ではうまく育たんかもしれんが」
「ローレンス様がご自分で蒔けばいいのです」
「わしは見られんかもしれん」
「見られます」
エマは顔を上げた。
「見ていただきます。私が、そうさせます」
ローレンスは驚いた顔をした。それから、目尻に深い皺を寄せて笑った。
「頼もしい花嫁だな」
それから春は三度来た。
一度目の春に、エマは種を蒔いた。二度目の春に青い小さな花が咲いた。ローレンスは椅子に座ったまま長いあいだ、それを見ていた。「クララが好きな色だ」と言った。
三度目の春に、花は庭いっぱいに広がった。
その日も、二人は円卓の紅茶を前にしていた。ローレンスはここ数日、眠そうな顔をしていた。エマは毎朝、脈を数えていた。少し弱くなっていることは、気づいていた。だから、その午後、庭に連れ出すことを少し迷った。
「大丈夫だ。今日は、外がよい」
ローレンスが言った。エマは頷いて、毛布を増やした。
円卓に紅茶が置かれた。日差しはやわらかく、青い花が風に揺れていた。
「……エマ坊」
「はい」
「今日の茶は、うまいな」
「そうですか。いつもと同じ葉ですよ」
「同じでも、うまい」
ローレンスは目を閉じた。口元がゆるんでいた。
「花が、きれいだ。……クララにも、見せてやりたかった」
声がだんだん、遠くなった。エマは、ローレンスの手を取った。指はあたたかかった。
脈はゆっくりと、ゆっくりと、遠のいていった。
エマは、数えていた。数えながら、手を離さなかった。やがて、数えるものが、なくなった。
庭には、風の音と、花の揺れる音だけがあった。紅茶は、まだ、うっすらと湯気を立てていた。
エマはしばらく、そのまま座っていた。それから静かにローレンス手を毛布の上に戻し、姿勢を整え、目を閉じさせ、使用人を呼ぶ鈴を鳴らした。
ふと、自分の手を見た。
――震えていなかった。
(……いつから)
三度目の看取りだった。エマの手はどこへ何をすればよいか、もう知っていた。それが悲しかった。悲しいのに涙は少し遅れてやってきた。
葬儀のあと、三週間かけて後片付けをして実家に戻った。
父も母も黒い服を着ていたけれど、玄関の扉をくぐったとき、母はエマの顔より先に手元を見た。
「遺産は」
遺産は少しの年金だけだった。エマは年金の証書を、黙って母に渡した。母の顔が安堵したように緩んだ。
「ちょうどよかったわ」
「……え」
「次の話が、もう決まっているの」
エマは、聞き返せなかった。
「お母様、喪がまだ明けておりません」
「今で三週間でしょう。嫁ぐ頃には喪は明けています」
母はにっこりと優しい笑顔を見せた。それが怖かった。
「あなたも慣れたでしょう。大丈夫よ。今度の方はお若いそうだから」
エマは玄関に立ったまま、動けなかった。
――悲しむ時間をください。
そう言うべきだったのかもしれない。けれど、言ったところで何が変わるのだろう。母の目の中には、もうエマの顔は映っていなかった。
(私は、お金を持ち帰る人間なのだ)
その考えが静かに胸に落ちた。それは、怒りでも悲しみでもなく、ただ、事実としてそこにあった。
エマは微笑んだ。慣れた微笑みだった。
「……承知いたしました」
その夜、エマはトランクの底に青い花の種を小さな袋に入れて、しまった。
◆
エマは目を開けた。
侯爵邸の庭だった。紅茶はすっかり冷めていた。
あの袋は、今も自分の古いトランクの底にある。四人目の夫のもとへ行く前も、今も、一度も蒔いたことはなかった。
(……春になったら)
エマは冷えたカップを盆に戻した。
領地の庭は日当たりがよいと聞いている。レオンと一緒に蒔けるかもしれない。
そう思って、自分で少し驚いた。未来のことを考えた。それも、花の話を。
遠くで窓の開く音がした。マーサが二階から手を振っていた。
「奥様。坊ちゃまがお目覚めです」
「ただいま参ります」
エマは毛布を畳み、立ち上がった。




