第八話 実家の影
約束の一週間は、静かに過ぎた。
夜の咳は一晩に一度か二度。汗をかく夜はなくなり、粥は三日目には匙二杯ぶん、一週間目には小さな碗いっぱいぶん、自分の手で食べられるようになった。マーサの字で埋まった紙の束は、卓の上で少しずつ厚くなっていった。
ハーヴェイ医師は毎日来た。窓の隙間を見て眉をひそめ、紙の束を黙って読み、診察を終えると何も言わずに帰った。反対も賛成もしなかった。ただ、記録を返すときの手つきだけが日ごとに丁寧になっていった。
八日目の夜、ディルクが書斎にエマを呼んだ。
「もう一人、医師に診せたい」
机の向こうで彼は言った。
「ハーヴェイを疑っているわけではない。だが、半年同じ目で見てきた人間の診立てだ。別の目も必要だとあなたは考えているだろう」
「はい。私からもお願いするつもりでおりました」
「クレイトンという男を知っているか」
エマは首を振った。
「王立医学院にいた。今は引退して北の療養所で患者を診ている。気難しいが腕は確かだと聞く。肺病の患者も多く診ているそうだ。三日後に王都へ来てもらう」
準備はすでに整えられていた。エマはこの人が動き出すと早いのだと、そのとき初めて知った。
クレイトン医師は、六十近い小柄で猫背の男だった。
エマたちのつけているマスクを見て、気難しげな表情が一瞬緩んだ。
「それは誰の指示だ」
「私です」
「そうか」
それだけだった。
診察室に変えた部屋で、彼はハーヴェイと並んでレオンの胸に耳を当てた。長い診察だった。背中、脇、鎖骨の下。指で叩き、耳を当て、また叩く。そのあいだ、レオンは一言も泣き言を言わなかった。
エマは、窓際で見ていた。両手をエプロンの前で重ねて。
診察が終わると、クレイトンは卓の上の記録を読み始めた。ハーヴェイが腕を組んで隣に立っている。二人の医師の間に、微妙な距離があった。
「この記録は、誰がつけた」
「夜の分は侍女のマーサが。昼の分は私が」とエマは答えた。
「悪くない。熱の出る時刻と咳の質が書いてある。……痰は」
「出ておりません。血も、一度も」
クレイトンは、そこで初めて顔を上げた。
「胸の右の上の音に濁りがある。これはハーヴェイ君の言うとおりだ。肺に病があることは、間違いない」
ハーヴェイの肩が、わずかに緩んだ。
「ただ」
クレイトンは続けた。
「ハーヴェイ君のこれまでの診察記録も見たが、この半年で痰に血も混じらず、熱も夕方の微熱だけとなると、進みは遅い。ハーヴェイ君がごく早い段階で発見したのか、あるいは、病の勢いが弱い質のものだ。この子の病は、思われているほど深いところまでは来ていないかもしれん」
「……確かなのですか」
声を出したのは、ディルクだった。部屋の隅で、立ったまま動かずにいた。
「確かなことは、何も言えん」
クレイトンは迷いなく答えた。
「治ると言えば嘘になる。治らんと言うのも嘘になる。誰にも、わからん」
「どうすれば治るのです?」
ディルクが尋ねる。
「それもわからん。肺病には確たる治療法もない。わかっているのは、空気と休養と食事で持ち直す者が稀にいるということだ。わしの療養所にもいる。だが治らん者も多い。どうすれば治るのか、わしが知りたいくらいだ」
ディルクの喉が、一度動いた。
「窓を開けて換気をするのは?」とエマが尋ねた。
「この寒い時期に冷気に当たらせるのは馬鹿のやることだ」
クレイトンは即答した。
「だがこの記録を見る限り、室温は管理されているようだな」
クレイトンは、ハーヴェイのほうを見ずに言った。
「冷気を避けるのと淀んだ空気を吸わせるのは別の話だ。肺のためには澄んだ空気がいい。冬が明けたら、すぐに空気のよい土地へ移すことだ。高台がいい。水の綺麗なところだ」
エマの脳裏に『サナトリウム療法』の文字が浮かぶ。エマが前世で生きていた時代よりずっと前に、結核患者に対して行われていた自然療法だ。
レオンが肺結核の初期段階であれば、免疫力を高められれば、あるいは――
「領地の屋敷がそうです」とディルクが言った。
「ならばそこだ。ただし、春まで待て。この冬の寒さのなかで長い旅をさせれば治るものも治らん」
ハーヴェイが咳払いをした。
「……私も、それには異存ありません」
彼はエマのほうを見なかった。けれど、その横顔は昨日までよりわずかに柔らかかった。
「窓については」
「室温が保てるなら」と、クレイトンが短く言った。「指一本だ。上出来だ」
エマは深く頭を下げた。胸の奥が熱かった。
(まだ、何も、始まっていない)
そう言い聞かせながらレオンのほうを見ると、毛布の端を握ったままじっとこちらを見ていた。
「……ぼく、領地に行くのですか」
「はい。雪が解けましたら」
「馬車に乗れるでしょうか」
「乗れるように、これから体を作ります」
レオンは少し考えてから、小さな声で言った。
「……春って、遠いですね」
「いいえ。思っているより近いですよ」
◆
その日の午後だった。
エマがレオンの昼寝を見届けて階下へ降りると、玄関のほうが騒がしかった。老執事の押し殺した声と、聞き覚えのあるよく通る男の声。
「妹がこちらにお世話になっておりまして。ご挨拶だけでも」
エマは、階段の途中で足を止めた。
玄関ホールに兄のアーサーが立っていた。仕立てのよい外套。手には大きな花束。以前より、いくらか太っていた。笑顔は記憶の中のものと変わらなかった。変わらないことが、いちばん胸にこたえた。
その前に、ディルクがいた。
「エマは看病で手が離せない」
低い声だった。けれど、玄関の広さの中でその声は、はっきりと響いた。
「面会はお断りしている」
「侯爵様。私はエマの兄です。家族に会わせていただけないと?」
「家族からの書状は昨日受け取っている。返答が必要なら、私の弁護士を通してもらおう」
「妹と直接話すのに弁護士が要りますか」
「要る。そう判断した」
ディルクは一歩も引かなかった。アーサーの笑顔がわずかに引きつった。
「……なるほど。さすがは侯爵様。ご用心が深い」
そう言いながら、彼の目がふと階段の途中に動いた。
「エマ!」
晴れやかな声だった。
「やあ、元気そうだ。心配していたんだよ。おまえが侯爵家に嫁いだと聞いて、父も母もどれほど喜んだか」
エマはゆっくりと階段を降りた。
ディルクの視線を感じた。止められるかもしれないと思った。けれど、彼は何も言わなかった。エマが自分で降りてくるのを待っているようだった。
「お兄様」
「花を持ってきた。母さんが選んだんだ」
「ありがとうございます。けれど、ご子息の部屋には持ち込めません。花粉が咳の元になることがありますので」
アーサーの手が一瞬、止まった。
「……そうか。そういうものか」
「今は、レオン様の看病が、私の務めです。お帰りください」
「冷たいな。久しぶりに会った兄に」
「お手紙は、拝読しました。お返事は、いずれ」
エマの声は静かだった。震えてはいなかった。震えなくなって、久しい。
アーサーは花束を傍らの執事に押しつけるように渡した。それから、エマにだけ聞こえる声で笑いながら言った。
「また戻ってくるさ。おまえはいつもそうだったじゃないか」
彼は外套の裾を払って背を向けた。
「そのときは、扉を開けておいてやる」
玄関の扉が、閉まった。
ホールに沈黙が落ちた。花束が執事の腕の中で、小さく揺れていた。
「……失礼いたしました」
エマが言うと、ディルクは首を振った。
「謝ることではない」
彼は窓の外の、去っていく馬車を見ていた。
「あの男は昨日の手紙より前に、すでにうちの周りを探っていた。使用人の何人かが声をかけられている」
「それはご迷惑を」
「迷惑ではない。警戒だ」
ディルクは、静かな声で続けた。
「あなたの実家の家計がいまどうなっているかも、私は知っている。借りた金の額も。あなたがこれまでに、どれだけ返してきたかも」
エマは、息を止めた。
「……お調べに、なったのですか」
「必要だった」
「どうして必要なのでしょう」
ディルクは何も答えなかった。
けれど、エマはその横顔に最初の夜と同じものを見た。言えないことを抱えている人の顔。嘘ではない。けれど、すべてでもない。
「領地には」とディルクが、低く言った。「彼らは来ない。私が来させない」
「……はい」
「あなたが嫌でなければ」
エマは少しだけ笑った。慣れた微笑みとは、少し違っていた。
「嫌ではございません」
レオンの部屋から、小さな咳が一度だけ聞こえた。エマはすぐに階段のほうへ向き直った。
「失礼いたします。お目覚めのようです」
「ああ」
階段を上がる背中に、ディルクの声が追ってきた。
「エマ」
初めて、名前で呼ばれた。エマは足を止めた。
「……春までに、頼む」
振り返らずに小さく頷いた。そして二階へ上がった。
窓の外では花束を持たされた老執事の姿が、冬の光の中で、ゆっくりと遠ざかっていった。




