第七話 お金に変わる花嫁
『愛するエマへ。結婚が成立したと聞いた。おめでとう。ところで、少々入り用なものがあってね』
手紙は、そんな書き出しで始まっていた。
父の筆跡は昔と変わらず丁寧で、字の端に人の好さが滲んでいる。だから余計に続く文面が重かった。新しい馬車、兄の事業、母の宝石の買い替え。金額はどれも、昔、三千バルクの借金を抱えて苦悩していたことなど忘れたかのように大きかった。
エマは、手紙を畳んだ。
窓の外は、もう暗かった。
(最初の遺産を渡したときも、父は、泣いて喜んだのに)
あの日の父の顔を、エマは思い出していた。
◆
伯爵の葬儀を終えて、実家に戻った日のことだった。
借金は完済された。エマが嫁ぐ時の支度金で。エマを迎え入れた両親はしばらく、声を出せずにいた。
「エマ。すまなかった。本当に、すまなかった」
「もう、よいのです。お父様」
「おまえに、こんな苦労を」
母も泣いていた。兄も、目を赤くしていた。祖母は、その前の春に亡くなっていたが、祖父は、杖をついて玄関まで出てきて、エマの肩に、何も言わずに手を置いた。
(帰ってきた)
エマはそう思った。冷たい石が胸の奥で少しだけ溶けた気がした。
けれど、その温かさは、長く続かなかった。
三か月が経つ頃、家の中の空気が少しずつ変わっていった。
食卓に肉が並ぶようになった。母が新しい絹の衣を仕立てた。兄は見たことのない友人たちと、夜遅くまで出歩くようになった。借金がなくなり手元に少しの余裕ができたとき、父も母も兄も、それまでの質素な暮らしが、急に窮屈に思えてきたのだろう。
「エマ、おまえが持ち帰った遺産だがね」
夕食の席で父が切り出した。
「もう残り僅かとなってしまった」
「ええ。ですが借金は支度金で返済できたのでしょう。おじいさまのお薬も買えましたし、家の修繕もできました。それで良いではありませんか」
父は、杯を傾けて、笑った。
「惜しいことだ。あれだけの財産をもらえるなら、もっと」
「お父様?」
「いや、何でもない」
その夜、エマは自分の部屋の窓から庭を見下ろした。祖父が毎朝、杖をついて歩いていた小道が雑草に覆われかけていた。
縁談が持ち込まれたのは、秋のはじめだった。
「ジョン・ハリソン卿という方でね」
母が、紅茶を注ぎながら何気ない調子で言った。
「七十を過ぎておられる。奥様を亡くされて、お寂しいそうなの。お世話をしてくださる方を探していて」
「お母様」
「支度金は、四千バルク」
エマは、カップを置いた。
「お断りいたします」
「エマ」
「私は、もう結婚はいたしません」
「何を言うの。まだ十八でしょう」
「十八でも、一度嫁いで夫を看取りました。それで十分です」
沈黙があった。母は悲しそうな顔をした。それがかえってエマの胸を刺した。
そのとき、扉が開いて父が入ってきた。
「聞いたよ、エマ。断るのか」
「はい」
「そうか」
父は、静かに椅子に腰を下ろした。怒っているようには見えなかった。ただ、疲れた顔をしていた。
「エマ。実を言うとな。もう、約束をしてしまっているのだ」
「……お父様?」
「支度金の一部をすでに受け取っている。馬車の頭金と、アーサーの事業の資金に」
エマは、声を出せなかった。
「おまえが断れば、それを返さなくてはならない。返せば今度は、私たちが食べていけなくなる」
「そんな」
「おまえには助けてもらった。感謝している。だが、もう一度だけ助けてはくれないか。ほんの短い間だ。ハリソン卿は半年ももたないと言われている。そうしたら、おまえはまた自由になる」
父は「頼む」と頭を下げた。昔、借金の話をしたときと同じ顔だった。同じ手の白さだった。
(違う)
エマは思った。同じではない。あのときは守るために差し出された。今は使うために差し出されている。
けれど、目の前で頭を下げている父は確かに、エマの父だった。その背中は小さく見えた。
「……半年だけ、ですね」
「ああ。約束する」
エマは、頷いた。
あとで思えば、それが最後に断れた機会だった。
ハリソン卿は、小柄で穏やかな老人だった。
病名は肝臓の病だった。顔色は黄ばみ、腹は水を溜めて張り、足は夕方になると靴が入らないほど腫れた。余命は半年と宣告されていた。
最初の対面で、老人は、エマに言った。
「すまないね。若い娘さんに、こんな年寄りの世話を」
「いいえ」
「君は、知っているのだろう。わしが、長くないことを」
「はい」
「それなのに、来てくれたのか」
エマは、微笑んだ。嘘のない微笑みだった。
「はい。お世話をさせてください」
老人は、安心したように、目を細めた。
エマは、前世の記憶を頼りに、できることを、すべてやった。
塩を控えた食事。足を高くして休ませること。夜は、腹の張りで眠れないから、枕の高さを変え、横向きになる角度を工夫した。痛みのひどい日は、医者に相談して、薬の量を調整した。
この世界は前世とは違う。医療はずっとずっと遅れている。だけど、前世で得た知識と経験はエマにとって大きな力になった。
半年と言われた命は、十か月、続いた。
ハリソン卿は、その一年弱を、無駄にしなかった。
疎遠だった息子夫婦を屋敷に呼び戻した。昔の友人たちに一人ずつ手紙を書いた。庭に小さな長椅子を置かせ、孫たちに囲まれて日向ぼっこをした。
「エマさん。わしは、人生の最後に、こんなに多くの人と笑えるとは、思わなかった」
「それは、旦那様が、お呼びになったからです」
「いや。君が、そうしてよいのだと教えてくれた」
最期の朝、老人は枕元のエマに静かに言った。
「ありがとう。わしの、最後の一年に付き合ってくれて」
エマは、声を出さずに頷いた。涙が頬を伝った。けれど、それは悲しみだけの涙ではなかった。
この人は、この人らしく最後まで生きた。それをエマは、確かに見届けた。
葬儀のあと、ハリソン家の弁護士がエマを呼んだ。
「奥様には、遺産の三分の一が、遺言で指定されております」
「……辞退いたします」
弁護士は、驚いた顔をした。
「奥様。それは、正当な」
「分かっております。けれど、私はお金のためにお世話をしたのではありません。このお金は、ご家族の皆様のためにお使いください」
弁護士はしばらくエマを見つめた。それから静かに頭を下げた。
「承知いたしました。ハリソン卿のお見立てどおりの方でした」
その言葉を、エマは、胸にしまって帰った。
(これで、いい)
そう、思っていた。
実家の玄関を開けた瞬間、空気が違った。
「遺産は」
父の第一声は、それだった。
「どうした、エマ。弁護士から連絡がないぞ。いつ、お金は」
「お父様。私は、辞退いたしました」
沈黙が、家中に落ちた。
「……何と言った」
「辞退いたしました。そのお金は頂けません」
母の顔から表情が消えた。兄が立ち上がった。
「馬鹿か、おまえは」
兄の声は低く震えていた。
「何を考えている。あれだけの財産を、みすみす」
「あの方のご家族のものです」
「俺たちは何のためにおまえを嫁がせたと思っている!」
エマは、はっとして兄を見た。
兄は自分の言葉に気づいたのか、一瞬口を閉じた。けれど、すぐに吐き捨てるように続けた。
「おまえはいつもそうだ。綺麗事ばかり。俺たちが、どれだけ」
「アーサー」
父が手で制した。それから、ゆっくりとエマに向き直った。
「エマ。おまえは本当に、私たちを助ける気があるのか」
その目は冷たかった。昔、借金の話をした夜の、あの白くなった拳の人は、もうそこにいなかった。
「……お父様」
「支度金はもう使ってしまった。この家はおまえの稼ぎで成り立っているのだ。それを、おまえは」
エマは、何も言えなかった。
稼ぎ――自分の結婚がそう表現されることに、足元がすっと冷えたように思えた。
母が小さく息をついた。それは、怒りでも悲しみでもなく、ただ失望の息だった。
「エマ。あなたは本当に、役に立たない子ね」
その言葉が胸の奥に深く刺さった。
エマは深く頭を下げて自室に戻った。扉を閉め、鍵をかけ、寝台の端に座った。
隣の祖父の部屋は静かだった。杖は壁に立てかけられたまま、埃をかぶっていた。祖父はその年の夏に息を引き取っていたのだ。エマがハリソン卿のもとにいる間に。
(お葬式に出られなかった)
誰も知らせてくれなかった。
エマは膝を抱えた。声を出さずに泣いた。肩が震えた。昔のように父に抱きしめてもらいたかった。「大丈夫だ、エマ」と言ってもらいたかった。
けれど、その腕はもうどこにもなかった。
窓の外は暗かった。夜の庭に、雑草が、風に揺れていた。
(それでも、私は家族を嫌いになれない)
エマはそう思った。それがいちばん、つらかった。
◆
エマは顔を上げた。
侯爵邸の客間だった。手の中の手紙はすっかり皺になっていた。
窓の外では夜の庭が風に揺れていた。あの日と同じ、暗さだった。
エマは手紙を卓の引き出しにしまった。そして、静かに息を吐いた。
(今度は、違う)
今度は、守るものがある。




