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死神夫人の五度目の結婚  作者: 鵜久森うた
第一章 死神夫人
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第六話 三日目

 三日目の朝、レオンは自分で匙を持った。


 エマは手を添えなかった。寝台の脇に座り、膝の上で両手を組んでただ見ていた。粥をすくう匙が途中で一度揺れる。レオンの唇がぎゅっと結ばれた。


 一口、入った。粥が一粒、顎に落ちた。


「……こぼしました」

「少しだけですね」

「怒らないんですか」

「どうして怒るのですか」


 レオンは答えずにもう一度、匙を握り直した。マーサは壁際に立ったまま、両手を前掛けの下で握りしめていた。手を出したいのを必死にこらえているのが分かった。エマはそちらを見て小さく頷いた。マーサも小さく頷き返した。


 昼前に医師が来た。


 ハーヴェイ医師は、五十を過ぎた頬の削げた男だった。王都で名の通った医師でレオンの病をいち早く発見し、半年のあいだ通い続けている。診察鞄を置くなり、彼は部屋を見回し、眉をひそめた。


「窓が開いておりますな」

「換気をしております。指一本ぶんだけです」とエマは答えた。

「閉めなさい」

「そうですね。診察のあいだは閉めます」


 医師の目が、初めてエマに向いた。値踏みするような、冷たい視線だった。


「あなたが、噂の……」

「エマと申します」


 言葉を呑み込んだのが分かった。医師は何も言わずに、レオンの寝台に向き直った。


 診察は、手際がよかった。胸を開き、耳を当て、指で軽く叩いて音を聞く。背中も同じように聞いた。レオンは、おとなしく従っていた。慣れすぎた子供の従い方だった。


「呼吸の音は変わりありません。右の上に、濁りがある。これも先月から同じです」


 医師は、体を起こした。

 エマは医師の言葉から前世の記憶がまた蘇る。

 レオンは肺結核なのかもしれない。この世界では肺結核も肺がんも「肺病」とひとくくりにされる。そしてまだ肺病の薬も、治療法も存在しない。でもまだ、できることはある。


「侯爵閣下。窓を開けるのはお控えいただきたい。冷気は肺に障ります。いま咳が少ないのは、一時的なものでしょう。数日で変わるものではないのです」

「その数日の記録が、ここにあります」


 エマは、卓の上の紙の束を差し出した。


「夜の咳は、二日前が二度、昨夜が三度。汗は、二日目の夜に一度ありましたが、昨夜はありません。食事の量は、昨日より三割ほど増えております。体の熱は、夕方に微熱がありましたが、夜には下がっております。換気は一時間に一度。その時の室温も記しています。」


 医師は、紙をざっと見て、鼻で息をついた。


「たかが三日の数字です」

「はい。三日間だけの数字です」


 エマは、否定しなかった。


「私も、これで治ると言うつもりはございません。偶然かもしれません。ですから記録を取っております。もし、悪くなる兆しがあれば、数字に出ます。私はそれを隠しません」

「悪くなってからでは遅いのです」

「そのとおりです」

「ならば、なぜ」

「悪くなる兆候が見えなかったからです」


 エマの声は、静かだった。


「閉め切って、暖炉を焚き続けたこの半年のあいだ、レオン様はよくなりましたか」


 医師の顔が、強張った。


「……病の進行は抑えられております」

「進行が止まったのではなく、抑えられている、と」

「そのとおりです。肺の病は治るものではない。ご存じのはずだ」

「存じております」


 エマは、そこで言葉を切った。治るものではない。その前提のうえに立って、この家の人々は半年を過ごしてきたのだ。守るために。そして、看取るために。


「先生が半年のあいだ、レオン様のために尽くしてこられたことを疑ってはおりません。私が申し上げたいのは、ただ一つです。治る可能性を最初から消さないでいただきたい」

「根拠のない希望は残酷です」

「根拠を、集めております」


 エマは、卓の上の紙を指した。


「これが、その一つめです」


 沈黙が落ちた。医師は唇を引き結んだ。誰かに論破された経験の少ない人の、居心地の悪そうな顔だった。


「……侯爵閣下」


 彼は、ディルクを振り返った。


「私は、この方法には賛成できません。万一のことがあれば、責任は取れませんぞ」

「承知した」


 ディルクは、短く答えた。


「責任は、私が取る」

「侯爵閣下」

「記録は見た。マーサの字だな」


 ディルクは、卓の紙を一枚、手に取った。隅に拙い書き込みがある。『坊ちゃまは、今朝、ご自分で匙を持たれた』。


 ディルクは、長い間、それを見ていた。


「……先生。三日では足りないと、今、思った」

「何を」

「猶予を延ばす。一週間だ。その間、診察に毎日来てほしい。記録は先生にも見せる。悪くなる兆しがあれば、その時点で止める。それでいいな」


 医師は、返事をしなかった。長い沈黙のあと、診察鞄を乱暴に閉じた。


「……明日も参ります」


 それだけ言って部屋を出ていった。扉が閉まる音が少し大きかった。


 静けさが戻ったあと、レオンが小さな声で言った。


「あの……先生を、怒らせてしまいましたか」

「いいえ。レオン様のせいではございません」


 エマは、毛布の皺を直しながら答えた。


「先生も、レオン様を大切に思っておられるのです。だから、怖いのです。怖いと、人は、強く言ってしまうものです」

「叔父上も、そうですか」


 ディルクが、一瞬、息を止めた。


「……そうだな」と、低く答えた。「私も、怖い」


 レオンは、少し驚いた顔をして、それから、ほんの少しだけ、笑った。


 エマは、その二人を見ていた。血の繋がった不器用な叔父と甥。同じ部屋にいるのに、ずっと、互いの顔を直視できずにいたのだろう。


(まだ、何も始まっていない)


 昨夜と同じ言葉を、心の中で繰り返した。けれど、その声は、昨夜よりも、少しだけ穏やかだった。


 夕刻、エマが廊下に出ると、老執事が小さな銀の盆を持って待っていた。


「奥様に、お手紙でございます」


 盆の上には、薄い封筒が一通。

 封蝋の紋章を見た瞬間、エマの指先から、血の気が引いた。


 チャーチル子爵家の紋章だった。


 結婚から、まだ三日。それなのに手紙が届いた。中身のことは想像がついた。


「……ありがとうございます」


 エマは封筒を受け取った。手は震えなかった。震えなくなって、もう久しい。

 けれど、封を切る前に指が一度だけ、止まった。


 廊下の先から、ディルクがこちらを見ていた。


「実家か」

「……はい」

「読まなくてもいい」

「いえ」


 エマは、微笑んだ。慣れた微笑みだった。


「読まないほうが、あとで、ひどくなりますので」


 ディルクは何か言いかけて口を閉じた。エマは封を切った。


 見慣れた父の筆跡だった。冒頭の一行を読んだだけで、胸の奥の石が、また一つ、重くなった。


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