第五話 最初の別れ
結婚して二ヶ月ほどでエマの一人目の夫、ランドルフは、エマの肩につかまって寝台を降りるようになっていた。
車椅子に乗り、エマと散歩をする。
そっちに行け。違うこっちだ。なにをしているノロマめ。
怒鳴り声は変わらないが、物を投げることはめっきり少なくなった。
エマは、この二ヶ月で、いくつかのことを決めていた。
食事は、右手で食べさせる。匙を握る力が弱ければ、柄に布を巻いて太くする。こぼしても咎めない。着替えは袖を悪いほうの腕から通し、脱ぐときは健やかなほうから。左の手は毎朝湯で温めて、指を一本ずつゆっくり曲げ伸ばしした。
動かない手に、声をかけながら。
「今日も、おはようございます」
「……馬鹿者。手に挨拶をする者があるか」
「ございます。ここに」
ランドルフは、ふん、と鼻を鳴らした。それでも、エマが手を取るたびに、その顔の力が少し抜けるのを、エマは見逃さなかった。
使用人たちも、変わっていった。辞めたはずの者が二人、戻ってきた。ランドルフの癇癪が、一日に一度あるかないかになったと知って。
「奥様は、何をなさったのですか」
執事が、不思議そうに尋ねたことがある。
「何も。ただ、できることを、取り上げないようにしただけです」
二年目の春、ランドルフは、杖をついて庭に出た。
「……右足から、だったな」
「はい。健やかなほうの足から、前へ。戻るときは、悪いほうの足から」
「ふん。小娘のくせに、口うるさい」
そう言いながら、ランドルフは言われたとおりに足を出した。
三歩。四歩。途中で何度も立ち止まり、息を整えて、それでも前へ進んだ。エマは、半歩うしろに立っていた。手は出さなかった。倒れそうになれば、すぐに支えられる距離で、ただ、見ていた。
庭まで辿り着いたとき、ランドルフは、柵にもたれて長く息を吐いた。
「……歩けたな」
「歩けました」
「十年ぶりだ。庭を、ちゃんと見たのは」
ランドルフは、咲き始めた花を眺めていた。しばらく、何も言わなかった。やがて、ぽつりと言った。
「わしは、息子に疎まれていた」
エマは黙っていた。
「卒中で倒れる前から、な。気難しい父親だった。倒れたら、なお厄介な荷物になった」
「旦那様……」
「世話をされるのが、怖かった。人に頼るのは、負けることだと思っていた。だから、先に怒鳴った。誰も近寄らなければ、傷つかずに済む」
ランドルフは、右手で柵を握りしめた。
「それなのに、おまえは逃げなかった」
「逃げられませんでした」
「正直な娘だ」
笑ったのだ、と気づくまでに、少しかかった。口の左側は、まだ動かない。けれど、右側の頬が、確かにゆるんでいた。
「エマ」
初めて、名で呼ばれた。
「おまえが来てくれて、よかった」
エマは、何かを答えようとして、答えられなかった。喉の奥が、熱かった。それはきっと、夫婦の愛ではなかった。けれど、確かに、あたたかいものだった。
その年の秋、ランドルフは、ときおり夜中に目を覚ますようになった。
エマは、隣室で眠っていたが、物音がすれば、すぐに起きた。寝台の脇に座り、冷えた右手を、両手で包む。
「怖い夢でも、ご覧になりましたか」
「……いや。ただ、もう一度、倒れるのではないかと、思うてな」
ランドルフは、天井を見ていた。
「医者は、二度目が来れば今度は持たないかもしれん、と」
「はい。そう伺っております」
エマは、嘘をつかなかった。
(前世でも、そうだった)
隠すより、一緒に向き合うほうが、ずっと穏やかに過ごせた人たちをエマは知っていた。隠された恐怖は、夜に膨らむ。語られた恐怖は、昼の光の中で少しだけ小さくなる。
「怖いのは当たり前です。私も、怖いです」
「おまえが?」
「はい。旦那様がいなくなってしまうのが」
ランドルフは、驚いたように、首を傾けた。
「……変わった娘だ。わしのような、頑固な年寄りを」
「頑固で、口が悪くて、声が大きくて、毎朝、手に挨拶をされる年寄りを」
「言うな」
二人で、少し笑った。夜の闇が、ほんの少しだけ薄まった。
「エマ。わしが逝ったら、おまえは自由になる」
「はい」
「財産は、おまえに残す。弁護士にも、そう伝えてある。伯爵家のものは全て息子に譲った。まだわしに残っているものはエマに譲る」
「旦那様、それは」
「受け取れ。あれは、おまえが稼いだものだ」
エマは、首を振りかけて、やめた。ランドルフの目が、あまりにまっすぐだったからだ。
「……ありがとうございます」
「うむ」
ランドルフは、安心したように、目を閉じた。
二度目の発作は、冬の最初の雪の朝に来た。
エマは、ランドルフの寝室にいた。紅茶を運ばせようと、呼び鈴に手を伸ばした、そのときだった。
背後で、小さな音がした。
振り向くと、ランドルフは、寝台の上で、右手を宙に浮かせていた。口が、何かを言おうとして、ゆがんでいる。
「旦那様!」
エマは駆け寄り、体を横向きにして、首元の襟を緩めた。呼吸を確かめ、脈を探る。誰かを呼ぶ声が、自分の口から出ていたが、遠く聞こえた。バタバタと人の出入りする音も、話し声も。
医者が来たのは、四十分後だった。
その間、エマは、ただ、手を握っていた。できることは、すべてやった。吐いたものが気道を塞がないように。意識がある間は、声をかけ続けるように。祈りのように、手順を繰り返した。
ランドルフの目が、一度だけ、エマを見た。
右の唇が、かすかに動いた。何かを言ったのかもしれない。声は、出なかった。
やがて、握っていた右手から、力が抜けた。
エマは、手を握ったまま、動けなかった。窓の外で、雪が、静かに降り続けていた。
葬儀の日、エマは黒い服を着て、棺の脇に立っていた。
現伯爵は、最後まで、エマと目を合わせなかった。遺言状が読み上げられたとき、その顔に一瞬だけ、怒りとも安堵ともつかないものがよぎった。けれど、何も言わなかった。
遺産は、遺言どおり、エマに渡された。
それは父の借金の返済に充てた支度金とほぼ同じ額だった。
(私は、これで自由になる)
けれど帰り道の馬車の中で、エマは窓の外を見つめたまま思った。
自分は、救えなかった。前世の知識を取り戻し、できる限りのことをした。それでも、あの人は二年と少しでいなくなってしまった。
(全員を救えるわけではない)
その当たり前のことを、エマは初めて自分の体で知った。
けれど、同時に、思い出していた。
最後の庭で柵にもたれて笑っていた、あの人の横顔を。「おまえが来てくれてよかった」と言った声を。
長く生きることだけが、すべてではない。どんなふうにそこにいられたか。最後まで自分が自分であれたか。
(私は、それを大切にしたい)
馬車はゆるやかに実家への道を進んでいった。窓の外は、一面の雪だった。




