第四話 二日目
夜明け前、エマは寒さで目を覚ました。
借りた客間の窓は、きちんと閉まっている。それなのに、胸の奥だけが冷えていた。エマは身支度を整え、足音を殺して廊下を渡り、レオンの部屋の前に立った。
扉を開けた瞬間、空気の重さで分かった。
窓は閉じられていた。隙間には、昨日引き抜いたはずの布が、きっちり詰め直されている。暖炉の火は勢いよく燃え、毛布の上にさらに一枚、厚い肩掛けが重ねてあった。
窓辺の椅子に、マーサが座っていた。
「……おはようございます」
おそらく夜通しここに座っていたのだろう。それなのに疲れを感じさせない声だった。
「おはようございます、マーサさん。ずっとこちらに?」
「坊ちゃまに、もしものことがあってはなりませんので」
マーサは目を合わせなかった。膝の上で組んだ両手が、小さく震えている。エマはそれを見て、布のことも、暖炉のことも、口にしないと決めた。
「夜の間、咳は何度ありましたか」
「え……」
「回数だけで構いません。数えていらしたでしょう」
マーサは、驚いたように顔を上げた。それから、少し間をおいて、小さく答えた。
「……四度です。それから、一度、うなされておいででした」
「ありがとうございます。昨夜の咳の回数は二度と聞いておりましたので、変化があったのですね。うなされたのは、いつ頃でしたか」
「夜中です。ひどく汗を……」
「では、毛布を一枚減らしましょう。暑かったのかもしれません」
マーサは、反論しかけて、唇を結んだ。責められると思っていたのだろう。昨夜の自分の行いが、約束を破ったことになるのは、彼女自身がいちばん分かっていた。
「……昨日のお約束を、守れませんでした」
「これまで行ってきたことをいっぺんに変えられない気持ちはわかります。レオン様のことが心配だから、そうしたことも」
エマは、静かに言った。
「ただ、お願いがあります。夜の咳の回数と、汗をかいた時刻を、これからはマーサさんに書いていただけませんか。私の見ていない時間のことは、あなたしかご存じないのです」
マーサの目が、揺れた。
「私が……記録を」
「はい。あなたがいちばん長く、レオン様のお側にいる方ですから。普段と違う様子があれば書き記しておいてほしいのです」
沈黙があった。やがて、マーサは小さく頷いた。完全に納得した顔ではなかった。それでも、膝の上の手の震えは、止まっていた。
エマは窓に歩み寄り、布を抜いた。窓を少しだけ開け、昨日と同じ、指一本ぶんだけの隙間を作る。冷たい朝の空気が、細く流れ込んだ。
寝台の上で、レオンが目を開けた。
朝食は、粥と卵と、温めた牛乳だった。
エマは、盆を持って入ってきた使用人から、それを受け取った。レオンの寝台の脇に座り、食事の様子を見ようと思った、そのとき。
「失礼いたします、坊ちゃま」
マーサが先に動いた。
匙を取り、粥をすくい、息を吹きかけて冷まし、レオンの口元へ運ぶ。レオンは、何も言わずに口を開けた。ごく自然な、慣れた動きだった。二人とも、それが当たり前だと思っている。
エマは、手を出さなかった。ただ、見ていた。
一口。二口。三口。
レオンの視線は、盆の上でも、匙でもなく、毛布の上に落ちていた。両手は、上掛けの下にしまわれている。匙を握りたそうな素振りは、ひとつもなかった。
(いつから、こうなのだろう)
エマは、昨日の対面を思い出した。咳き込んだ口を布で覆い、隠すように握り込んだ、あの小さな手を。手は、動く。動くのに、使われていない。
「マーサさん」
「はい」
「いつもこのように、お手伝いをなさるのですか」
「坊ちゃまの手では、こぼしてしまわれますから。お体に障ってはいけません」
「手が震えるほど、お弱りなのですか」
「いえ、そこまでは……」
マーサは言いかけて、口をつぐんだ。
エマは、盆から匙を取り上げた。レオンの前に差し出す。
「レオン様。一口だけ、ご自分で召し上がってみませんか」
レオンは、匙を見た。それから、エマを見た。その目の中に、困惑よりも先に、怯えがあった。
「……ぼく、こぼします」
「こぼしても構いません」
「上掛けや毛布が汚れます。マーサが、また洗わなくちゃいけなくなる」
「洗えば済みます」
「でも」
レオンの声が、小さくなった。
「ぼくが何かすると、みんなが困るから」
その言葉が、部屋に落ちた。
マーサが、息を呑んだ。顔から血の気が引いていた。彼女は、そんなことをレオンに言わせるつもりは、一度もなかったのだ。ただ、守りたかっただけなのだ。その守り方が、この子に何を教えてきたのか、初めて目の当たりにしたのだった。
エマは、部屋の隅のテーブルに置かれた替え用の敷布を手早く畳み、盆と上掛けの間に挟む。
「これで、こぼしても敷布を洗うだけで済みます」
レオンの手を、そっと上掛けの下から引き出した。
細い手だった。けれど、指は動く。匙を握らせると、小さな指が、ぎこちなく柄を包んだ。
「ゆっくりで構いません。私の手を添えます」
粥をすくう。匙が、一度揺れた。レオンの唇が、必死に結ばれる。口まで運ばれる間、誰も呼吸をしなかった。
一口、入った。
「……食べられた」
レオンの声は、驚いたように、少しかすれていた。
「はい。召し上がれましたね」
「こぼれませんでした」
「次は、こぼしても構いませんよ」
その言い方に、レオンは、初めて、ほんの少しだけ笑った。
窓からは朝の光が差していた。マーサは、空になった自分の手を見つめたまま、動かなかった。その目尻が、静かに濡れていた。
食事の後、マーサとレオンにマスクを渡す。手縫いの綿のマスクだ。
「レオン様もマーサさんもこれを付けていただけますか」
「これは何ですか?」
「マスクです。これで口と鼻を覆ってください。呼吸が苦しいようでしたらはずしていただいて構いません」
マーサの表情が曇った。
「これは、ぼくの病気をうつさないようにするためのものですか?」
レオンが少し俯いて問う。
「そうですが――」
エマが言いかけたところでマーサが遮る。
「私はつけたくありません。今までもうつりませんでした」
厳しい声だった。
エマは彼女の気持ちもわかるような気がした。マスクという隔たりがレオンを傷つけると感じているのだろう
「これはレオン様の肺病が私たちにうつらないようにということだけではありません。私たちがレオン様へ病気をうつさないようにするためのものでもあります」
「私たちが?」
マーサが聞き返す。
「今は冬です。私たちからレオン様に風邪をうつしてしまうことがないとは言えません。私たちなら熱も出ないようなちょっとした風邪でも、レオン様には響くことがあります。それを防ぐために必要です」
マーサは少し考え込む表情を見せた。
「これはエマさんが作ったのですか?」
レオンがマスクをじっと見ながら言う。
「そうです。去年、時間のあった時に。……縫い目が拙くて恥ずかしいのですが」
「そんなことないですよ。ぼく、これつけます。マーサもつけて」
マーサはレオンに言われてマスクをつける。エマはレオンの背後に回り、頭の後ろでマスクの紐を縛った。
「苦しいと思ったら、無理をせずはずしてください。寝る時もはずしてくださいね」
マーサがどこまで納得したのかはわからない。しかしこれで感染予防の第一歩が踏み出せた、とエマは思った。
◆
午後。エマは、マーサから渡された紙の束を、卓の上に広げた。
昨日の夜から今朝までの、咳の回数。汗をかいた時刻。食事の量。紙の隅には、拙い字で、短い書き込みがあった。
『坊ちゃまは、今朝、ご自分で匙を持たれた』
エマは、その一行を、しばらく見つめていた。
(――この感じを、知っている)
手のひらが、遠い記憶に触れた。広い寝台。動かない左腕。投げられた置物。それでも、最後には、自分の肩につかまってくれた、あの人の手。
エマは、紙を整え、静かに立ち上がった。
明日は、三日目だった。




