第三話 売られた花嫁
白い廊下の記憶が蘇ったのは、エマが十六の冬だった。
その少し前まで、チャーチル子爵家は貧しくて明るかった。
暖炉の薪は一晩に三本と決まっていた。祖母は寝台の上で編み物をしている。足の悪い祖父は、窓辺の椅子に座って外を見ている。そして時たま杖をついて手洗いに行く。そのたびにエマが肩を貸した。
「エマの肩は丈夫だなあ。嫁に行っても困らんぞ」
「お嫁になんて行きません。おじいさまの杖がなくなってしまいますもの」
そんな冗談を言い合える家だった。祖父を起こす角度、祖母の背に当てる枕の高さ、食べ物を飲み込みやすくする煮込みの柔らかさ。エマは、誰に教わるでもなく覚えていった。
父が顔色を変えて帰ってきたのは、その年の秋の終わりだった。
友人の事業の保証人になっていた、と父は言った。だがその友人はすでに姿を消していた。
「三千バルクだ」
食卓が静まった。母がスプーンを落とす音だけが、やけに大きく響いた。
六人家族が二年、いや三年は暮らせる額。今のチャーチル家にはその百文の一ほどの蓄えもない。
「どうにかなる。あてはある」
父は笑おうとして、失敗した。兄も母も青ざめるばかりだった。
あてというのは、ゴードン伯爵家からの縁談だった。
「相手は、前伯爵ランドルフ・ゴードン様だ」と父は目を逸らしたまま言った。「卒中で、左半身が利かないそうだ。それで、お世話をする者が要る」
「看護人なら、雇えばよいのでは」と母が言った。
「雇った者は、全員辞めた。前伯爵は平民が世話をするのが許せないそうだ……嫁であれば、辞められん」
誰も口をきかなかった。祖母が寝台の上から、細い声で言った。
「エマ。断ってもいいんだよ」
エマは祖母の顔を見た。それから、父の手を見た。握りしめた拳が白くなっていた。
「いえ。行きます」
自分の声が思ったより落ち着いていて、驚いた。
「おじいさまとおばあさまのお世話で、慣れておりますから」
そう言って笑顔を作る。うまく笑えていたかどうかはわからない。
結婚のための支度金は、三千バルクを少し上回った。父は何度も頭を下げたが、エマはその額で自分の値段が決まったのだと思った。恨む気持ちは、不思議と湧かなかった。ただ、胸の奥に冷たい石が一つ置かれた。
◆
ゴードン伯爵邸は、高い塀に囲まれた石造りの屋敷だった。
出迎えたのは、現伯爵を名乗る三十がらみの男だった。前伯爵の息子である。彼はエマを一瞥し、書類に署名をさせると、それきり顔を見せなかった。
「旦那様は東の棟におります。お部屋は、そちらにご用意しました」
案内した執事の声には、気の毒そうな響きがあった。廊下には、まだ誰も使っていない家具が埃をかぶって並んでいた。
「使用人は、何人いらっしゃるのですか」
「今は、四人でございます」
「以前は」
「……二十人ほど」
エマは、それ以上は問わなかった。
東の棟の奥の部屋の前で、執事は足を止めた。
「お入りになる前に、ひとつだけ。旦那様は、気が立っておられます。何をお投げになっても、どうかお気を悪くなさいませんよう」
扉を開けた瞬間、何かが耳元をかすめて、壁に当たって砕けた。陶器の欠片が床に散った。
「出て行け!誰が頼んだ、貴様らなど!」
寝台の上に、痩せた大柄な老人がいた。白髪は乱れ、右の手だけが、枕元の小卓を掴んでいる。左の腕は、体の横に置かれたまま動いていなかった。顔の左側は少し下がり、口の端から、よだれが糸を引いていた。
「……エマ・チャーチル、いえ、エマ・ゴードンと申します。本日より、お世話をさせていただきます」
「世話だと?笑わせるな。死に損ないの老いぼれに、小娘をあてがうとは!」
どこか呂律がまわっていないような、くぐもった言葉が投げかけられる。
だが投げられた言葉の鋭さに、エマは頭を下げたまま、足の指に力を入れた。
怖くはなかった。ただ、悲しかった。この人は、怒鳴ることでしか、自分を守れないのだと思った。
◆
最初の一週間は、食事を運んでは投げられ、着替えを広げては払われた。
それでも、エマは辞めなかった。辞められなかったというほうが正確かもしれない
祖父と祖母を世話した経験が、ここでも役に立った。右手で届く位置に水差しを置く。食事は、むせないように細かくして冷ます。怒鳴られても声を荒らげない。祖父母の前で何度も繰り返したことを、ただ繰り返しただけだった。
けれど、日に日に、足りないと感じた。
左腕が体の下になっているのに、本人は気づいていない。腰に当たる敷布の皺が、赤く跡を残している。夜中に何度か寝返りを打たせないと、痛い場所ができてしまう。そんなことをどうして自分が知っているのか、エマは考えなかった。ただ手が動いた。
十日目の午後だった。
「触るな!」
敷布を直そうとした手を、右腕が振り払った。そのまま、枕元の小卓から何かが飛んだ。
金属の置物だった。
がつん、と音がして視界が白くなった。
額に鋭い痛みが走り、エマは床に膝をついた。温かいものが頬を伝った。
その瞬間、白い廊下が見えた。
長く、まっすぐに伸びた廊下。消毒液の匂い。歩くたびに鳴る柔らかい靴音。胸元には名札が揺れている。ピーという無機質な音。誰かの声が背後で呼ぶ。
(山下さん、五〇四号室、お願い!)
エマは自分の手を見た。血のついた小さな手だった。その手に別の手が重なった。白いニトリル手袋をした手。血圧計を巻き、脈を取り、点滴の速度を数える手。
ああ、とエマは思った。
私は、これを知っている。何をすべきかも知っている。
「……おい」
頭の上から、かすれた声が降ってきた。
「おい、小娘。……大丈夫か」
エマは顔を上げた。
寝台の上の老人が右手を震わせながら、こちらを覗き込んでいた。怒りで赤かった顔が、今は青かった。
――この人は、怖いのだ
そう思った瞬間、不思議とすべてが静かになった。
目の前にいるのは気難しい前伯爵ではなかった。癇癪持ちの老人でもなかった。体の半分を突然奪われ、言葉も思うように出せず、誰にも触れられたくなくて、それでも誰かに触れてほしい、一人の患者だった。
エマは袖で額を拭い、ゆっくり立ち上がった。
「ご心配には及びません。少し切れただけです」
「……」
「それより旦那様。先ほどから、左の肩が下がっておりますね」
老人の目が、見開かれた。
「左の腕がお体の下敷きになっています。痛みはございませんか。感じにくくなっていても、圧迫は、あとで傷になります」
「……何を」
「動かせないのと、感じないのは違います。ここからは私が見ます」
エマは枕元に膝をつき、まっすぐ老人の目を見た。
「もう大丈夫です。今から、少しだけ体を起こします。私の肩につかまってください」
老人の唇が小さく震えた。
誰も、そんなふうに言ってくれなかったのだろう。何かを言い返そうと開かれた口から、言葉は出なかった。ただ、右の手がゆっくりとエマの肩に伸びた。
エマは、その手を受け止めた。
白い廊下の匂いがまだすぐそこにあった。




