第二話 窓と三日間
「でもレオン様。契約には、決まっていないことがひとつあります」
そう言ったエマの顔をレオンは不思議そうに見つめる。
「あなたがいつ亡くなるか、です」
エマは静かに告げた。
ディルクが口を開きかけたが、エマは視線だけでそれを制した。
「それは、決まっておりません。そして決めることは誰にもできません。お医者様にも、私にも、あなたご自身にも」
レオンは瞬きをして、少しだけ戸惑うように首を傾げた。
「……エマさんは、変わった人ですね」
「よく言われます」
エマは部屋を見渡した。窓には厚いカーテン。その隙間から布の詰められた窓が見える。絶えず焚かれた暖炉に枕元の水差し。
「この布を詰めたのは、どなたですか」
「私です」
壁際の侍女が一歩前に出た。背筋の伸びた、五十代くらいの女だった。
「マーサと申します。先代の奥様の頃からお仕えしております。坊ちゃまを凍えさせないために、そう致しました」
「そうですか。それは正しいことだと思います。ご立派なお心がけです」
エマは本心からそう言った。マーサの口元が、わずかに緩みかけて、すぐ引き締まった。
「あの、エマ様……」
「失礼いたします」
エマは窓辺へ歩き、重いカーテンを一息に引くと、十二月の昼の光が、白く弱く、部屋の奥まで届いた。舞い上がった埃が淡く光る。窓ガラスには内側から霜が這っていた。レオンは眩しそうに目を細めた。
エマはそのまま窓の隙間に詰められた布を指で引き抜いた。
「エマ様、何を!」
マーサの声は悲鳴に近かった。
「旦那様、お止めください。この寒さで窓など開けたら、坊ちゃまが……!」
窓の鍵に手をかけたところで、ディルクの低い声が止めた。
「待ってくれ。今は真冬だ。医師は、冷気が肺に障ると言っている」
「存じております」
エマは手を止め、振り返った。
「ですから、指一本分だけ、そしてほんの数分だけにいたします。毛布を重ねて、顔に外の空気が触れる程度です」
「それで何が変わる」
「閉め切った部屋で、同じ空気を吸い続けるよりも、新鮮な空気を吸う方が良いと、私は考えます。冷やさないことは大切です。けれど、空気を入れ替えることも同じくらい大切です」
季節は冬。外気を入れることが必ずしも正しいとは言えない。体力の落ちた子供ならなおさらだ。でもこの部屋の重く澱んだ空気を入れ替えたかった。
「先月、坊ちゃまは隙間風のせいで風邪をひき、高い熱を出されたのです」
マーサが、絞り出すように言った。
「あの夜を、エマ様はご存じないでしょう。私は、あんな思いは二度と」
「そのときの熱は、どのくらい続きましたか」
エマは責める調子を入れず、静かに問い返した。
「……三日です」
「その間、お部屋の窓は」
「閉めておりました。ずっと」
「暖炉は」
「ずっと、焚いておりました」
「ありがとうございます。それが分かれば十分です」
マーサは、何か言い返そうとして、言葉を失った。誰も、彼女の看病を責めてはいない。それが、かえって彼女を黙らせた。
ディルクが唇を結んだまま、エマを見ていた。誰も、エマを信じてはいなかった。当然だった。死神夫人が、冬に病人の窓を開けようというのだから。
「医師の指示に背くことになる」
「はい」
「万一のことがあれば、あなたが責められる。死神夫人が、侯爵家の跡取りを殺したと」
「それは、承知しております」
答えは短かった。強がりではなく、いちばん言い慣れた言葉を口にした者の声だった。
「ですが、これは必要なことなのです」
揺るぎないエマの言葉に、ディルクは眉を寄せ、長く息を吐いた。
「医師の指示よりもか?」
「医師の指示よりもです」
ディルクはエマを見据えた。視線を逸らすことなく、正面からディルクを見つめるエマに強い意志を感じた。
「……三日だ」
「三日?」
「三日、あなたのやり方を見る。その間にレオンの具合が悪くなれば、すぐにやめてもらう」
「結構です。ただし、条件がございます」
エマは指を一本立てた。
「この三日間、お部屋の中のことは私に任せてください。窓も、暖炉も、お食事も。マーサさんにも、私の指示に従っていただきます。その代わり、お医者様の診察は予定どおり受けます。咳と熱と食事の記録は、毎日お見せします」
マーサが息を吸い込んだ。ディルクは、一拍おいて頷いた。
「分かった。マーサ、聞いたとおりだ」
「旦那様……」
「三日だけだ」
マーサは深く頭を下げた。その肩が、小さく震えていた。
エマは窓に戻り、鍵を外した。ほんのわずかな隙間から、冬の入口の風が細く流れ込む。冷たく澄んだ空気が、澱んでいた部屋の匂いを少しずつ押し流していった。
そのとき、ベッドの上から小さな声がした。
「あの」
三人が振り向く。レオンは毛布を握ったまま、窓を見ていた。
「もう少しだけ、開けてもらっても、いいですか。寒くなったら、すぐ言います。だから」
エマは、自分の喉が一度だけ詰まったのを感じた。
「では、毛布をもう一枚、お持ちいたしますね」
◆
夜になった。
エマは、レオンの部屋の戸口に立っていた。あれから一時間ごとに数分、換気をしている。今は換気の最中。窓は指一本ぶんだけ開けてある。毛布は三枚。暖炉の火は、窓を少し開けてる分だけ強くした。換気はしても室温は下がらないように。
寝台の上で、レオンは眠っていた。眠りは浅くなかった。胸が、一定の間隔で上下している。エマは無意識に数えていた。一、二、三。呼吸は二十に届かない。咳は、夕食のあとに二度出ただけだった。
小さな顔だった。閉じた瞼の上に、蝋燭の火が揺れている。
その横顔に、別の顔が重なった。
白い廊下。消毒液の匂い。夜勤の巡回の、足音を殺した靴。病室の扉の隙間から覗くと、同じように小さな子が、同じように眠っていた。痩せて、こけた頬。時折苦しそうに眉を顰める。
救えた命のことも、救えなかった命のことも、ふとした瞬間に蘇る。
エマは、指先で自分の手首を押さえた。脈が速くなっていた。
(まだ、何も始まっていない)
そう言い聞かせたとき、足音が聞こえた。
「眠っているのか」
ランプを提げたディルクが背後に立っていた。上着を脱ぎ、襟元を緩めた姿は、昼間より少し若く見えた。
「はい。深く眠っておられます」
「……そうか」
ディルクはランプを低く掲げ、寝台を覗き込んだ。長い間、何も言わなかった。
「こんなに深く眠るのは、久しぶりではないだろうか」
「まだ一日目です。喜ぶのは早うございます」
「分かっている」
分かっている、と言いながら、ディルクの指は、ランプの柄を強く握った。
その時レオンが寝返りを打ち、毛布が乱れる。
エマはディルクの仕草に気づかなかったふりをして、部屋に入り、レオンの毛布を直した。迷いのない手つきだった。自分でも、驚くほどに。
窓も、もうそろそろ閉めていいだろう。音を立てないよう、そっと閉じる。隙間に布は詰めない。
そしてまた部屋から出てディルクに告げる。
「明日の朝、またご報告いたします。ご安心ください、夜半はマーサさんが見てくれることになっています。レオン様から目を離しません」
「……まだ一日目だ。君もちゃんと休むように」
「承知しました。おやすみなさいませ」
「ああ。……おやすみ」
エマはもう一度レオンの様子を見て、それから静かに扉を閉めかけた。
背後でディルクの独り言が洩れた。
「……あいつの言ったとおりだ」
エマの手が止まった。
あいつ。その言葉に思い当たる人がいないわけではないし、問えば答えてくれるかもしれない。けれど、問うてはいけない気がした。答えを聞いてしまえば、この契約が、ただの契約ではなくなってしまう。そんな気がした。
エマは聞こえなかったふりをして、そっと扉を閉めた。
窓の外で、冬の風が、細く鳴っていた。




