第一話 五度目の結婚
「エマ・チャーチル殿。私と結婚していただきたい」
侯爵家の応接室は、紅茶の湯気ひとつ揺れないほど静かだった。壁際に控えていた年配の侍女が、ほんの一瞬、息を飲んだのがわかる。
エマはカップを置き、向かいに座る男性を見た。
二十八歳、だと思う。まだ、若い。
普段から鍛えているのだろう。がっしりとした体格で、健康そうに見える。短い髪も黒く、艶がある。
どう見ても、死期が近いとは思えない。
「侯爵閣下は、私が何と呼ばれているか、ご存知ですよね」
「もちろん」
躊躇することなく、頷く。
「では、お口に出してくださいませ」
そう言われたディルクは眉ひとつ動かさなかった。
「死神夫人」
侍女の肩が小さく跳ねた。エマは微笑む。慣れた微笑みだった。
「その通りでございます。四人の夫を看取りました。いずれも、私が嫁いでほどなく。縁起を気にされる方は、私の名を聞いただけでお席をお立ちになります」
「私は気にしない」
「気にしない方は、たいてい何かをお望みです。私に何をお望みですか?」
ディルクは否定しなかった。
「あなたの力を借りたい」
「閣下はお元気そうにお見受けしますが。なぜ、私を?」
「私ではない。息子だ」
エマは瞬きをした。
「奥様を亡くされているのですか?」
「私はこれまで結婚をしたことはない。息子というのは兄夫婦の遺児で、私の養子となっている。レオン、八歳。肺を病んでいる。医師は、長くはもたないと言った」
沈黙が落ちた。
「息子が死ぬまでの間でいい。母親代わりになってほしい。その間の身分と暮らしは、私が保証する」
「母親代わりなら、乳母も家庭教師もおりましょう。なぜ、私なのですか」
ディルクの視線が、一瞬だけ膝に落ちた。
「あなたが適任だと」
「適任」
エマはただ繰り返した。
たぶんそれは嘘ではない。けれど、すべてでもない。エマはそれ以上を問わなかった。問うても、自分に断る理由はないのだから。
「つまり契約ですね。ご子息が亡くなるまでの間の」
「……そうだ」
「よろしいのですか?侯爵閣下は未婚なのに、私などと結婚をしても」
「構わない」
「そうですか。承知いたしました」
「……早いな」
「結婚するのは五度目ですので」
そう答えて、エマは差し出された結婚届にペンを走らせた。
すでに支度金は受け取っている。この家に買われたこと、いや、嫁ぐことは決定しているようなものだ。
ただ「この書類に署名しろ」とだけ命令すればいいのに律儀な人だな、とエマは思った。
ディルクは一枚ずつ署名を確かめ、控えていた老執事に渡す。老執事は一礼して部屋を出て行った。書類を教会に届けに行ったのだろう。
これで、五度目の結婚が成立した。
エマは冷めた紅茶の入ったカップを持ち上げた。手は震えなかった。震えなくなって、もう久しい。
けれど、これまでの結婚とは違う。これまでは夫を看取ってきた。今度は息子――子供だ。
次の言葉は、考えるより先に口をついて出た。
「教えていただきたいことがあります」
「何だ」
「ご子息の年齢はおいくつなのでしょう。咳は、乾いていますか。それとも痰が絡みますか。血が混じったことは。夜に、熱は」
言葉が次々に紡がれる。
ディルクが初めて、目を見開いた。
「……なぜ、そんなことを」
エマは自分の口から出た言葉に、少し遅れて気がついた。 なぜ、そんなことを。侯爵の口から出た言葉をそっくりそのまま自問した。
ずっと昔に置いてきたはずの、白い廊下が脳裏によぎる。
「……会わせていただけますか。今すぐに」
ディルクは数秒だけ迷い、立ち上がった。
通された二階の奥の部屋は、昼間だというのに薄暗かった。厚いカーテンは閉ざされ、窓の隙間には布が詰められている。暖炉の火が絶えず焚かれているのか、空気は重く、乾いていた。
ベッドの上に、小さな影があった。
「レオン。お客様だ」
少年は、ゆっくりとこちらを向いた。頬は薄く、顔色も悪い。上掛けの上に置かれた手首は、エマの指が一周してしまいそうなほど細かった。
「はじめまして。レオンです。お見苦しい格好で、すみません」
八歳の子供の挨拶ではなかった。自分の人生を達観した大人の言葉だった。
「エマと申します。お加減はいかがですか」
「今日は、いい方です」
そう言って笑い、すぐに小さく咳き込んだ。乾いた、浅い咳だった。レオンは慌てて枕元の布を口に当て、エマの目から隠すように握り込んだ。
エマは、その布が白いままであることを、目の端で確かめた。
「叔父上が、新しいお母様を連れてきてくださるって、聞いていました」
レオンはまっすぐエマを見た。
「ぼくが死ぬまでの、お母様ですよね」
ディルクが息を呑む気配がした。
「……誰から聞いた」
「聞こえました。廊下で、先生と話していたのが」
責める調子ではなかった。ただ、事実を確かめるだけの声だった。それが、いちばんつらかった。
エマは、かつて知っていた。こういう子供を。自分の病名を知っていて、大人を悲しませないために、先に諦めてしまった子供を。
「ええ。そういう契約でございます」
エマは、飾らずに答えた。
「でもレオン様。契約には、決まっていないことがひとつあります」
レオンの表情が少し、変わった。
年相応の子供の顔で聞き返す。
「決まって、いないこと?」




